2007年 05月 15日
エンデと語る Vol4
P141~
エンデ 
シュタイナー自身いうように、モラルとは直感です。お題目ではありません。そして直感とは、明々白々たる体験のことです。それが何であるかということを定義できる哲学者は、この世にいません 2×2=4、これは「明白体験」です。これをさらにさかのぼることなど、できないのです。今のこの瞬間、自分が何をなすべきか、それをこの明白体験から瞬時に決断し、行為する、それがそのままモラーリッシェ・ファンタジーです。
子安 
 するとその場合の「モラル」というのは、たんなる善行とかのレベルをこえて、もっとずっと広がるのですね。1日に3つの「小さな親切」を自発的にすませたから、これでいいなんてものではまったくない。さっき話題になった『鏡の中の鏡』の第2話、例の「そもそも課題がどこにあるのか、を見つけ出すことが課題だ」という、あのかわった試験問題も、一種のモラーリッシェ・ファンタジーを要求しているのではないでしょうか。




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エンデ 
 まさにあれが、モラーリッシェ・ファンタジーです。でも、いいですか、おかしなことに、ここでもまたアントロポゾーフたちのなかに『鏡の中の鏡』を批判してくる連中がいます。今度のあなたの作品にはモラーリッシェ・ファンタジーが欠けている、と言ってきます。彼らは重大な誤解をしているので、ここで注意をうながしたい。この語を口にするときのアクセントが違う、という単純なまちがいなんです。多くの人が「 モラーリッシェ・ファンタジー」 と読んで、その反対語は「ウンモラーリッシュ(非道徳的)」なファンタジーだと考えている。アントロポゾフィーの雑誌なんかにも散見されるまちがいですが、これはばかげています。ファンタジーはファンタジーであって、これに道徳的、非道徳的の種類分けはできません。シュタイナーの意味する内容は、「モラーリッシェ・ファンタジー」のアクセントで呼ばれるべきものです。つまり、その反対語は「道徳的不毛(Moralische Sterilitat=モラーリッシェ シュテリリテート)」です。お題目ばかりで外見上の道徳生活をしているうちに、自分のなかからモラルの創造ができなくなってしまう、という意味で「不毛」です。
 直感に根ざして一回一回モラルを創造しうる人間、他から与えられた尺度や、社会の慣習に根拠を置くのではなく、ある状況に直面した瞬間、そのたびごとの道徳的決断をくだす。しかも自己の創造性からその決断をくだす人間。『私の読本』に収録したのは、その意味での「モラーリッシェ・ファンタジー」です。
子安 
 エンデさんの作品自体にも、その実例は山ほどでてきます。『鏡のなかの鏡』の道化師が言っている「一歩一歩が決断だ」という十全な意義、あるいはファンタージエンのバスチアンが「自分のおこなうひとつの決断は、次の瞬間また新たな決断へと誘うものだった」 と気づくこと・・・・もしかしたら生のすべての時間にこういう決断でつらぬかれているとしたら、そのときこそ、私の過去は必然だ、そして私の未来は自由だ、という真理が生きてくるのでしょうね。
エンデ 
そのとおりです。
子安 
 じつは、日本の学校などで生徒に対する規則条項が多いことがよく問題になります。でもどんなに規則をふやしても子供たちがそのおかげでモラーリッシュな人間に育つというわけではない。むしろ逆に規則が多ければ多いほど生徒がだめになっていくような印象を受けます。そのなりゆきが、今あらためてうなずけるように思いました。
そして一方エンデさんはきょう、芸術がホメオパティーだ、というお話のところでおもしろいことをおっしゃいました。芸術のなかにモラルをもちこんではならない、ギリシャ悲劇やシェークスピア劇で、世にもおそろしい殺人がおこなわれる――でもそれは舞台上のことだ、そして舞台の上でモラルがお説教されればされるほど、観客はよけいに非道徳的になるという逆説を説かれたでしょう。
エンデ 
 ええ。芝居を見るときの私たちは、舞台の上のできごとに対してモラーリッシェ・ファンタジーを実行する必要がありません。オセロがデスデモーナを殺している場に、あなたは制止しに飛んでいく必要はない。が、日常空間のなかでは、だれかがだれかをなぐっているのを見たら、あなたはその瞬間モラルの決断をせまられます。
子安 
するとその舞台空間と日常空間とは別の世界であること、そして舞台空間でモラルの意識から解放され、犯罪的な行為をもエンジョイすることによってホメオパティーの作用が生じ、私たちはかえって健康になって、日常生活でのモラーリッシェ・ファンタジーも強められる。ということでしょうか・・・あ、また『はてしない物語』にもどってきました。
エンデ 
 そう、バスチアンのみならず私たちのだれもが、ときどきホーマーやシェークスピアやドフトエフスキーの世界に旅してくる意味はそこにあります。文学作品を読む、いや体験することの必要性が――。

・・・・・中略・・・・・
P167~
子安 
 ・・・最近私が、ときどき試みるのは『モモ』の「時間の花」の場面を読むことです。なぜ通信簿に点をつけないのか、どうしてエポック授業なのか、等々のことを知りたがってくる人たちの前で「時間の花」が咲いては散り、散っては咲く、どの花も一回一回そのときが一番美しい、と思われる咲き方・・・・それを声をあげて読む。突拍子もなく感じる人がいるかもしれません。けれども私は言うのです。「シュタイナー教育という名前だろうと、ほかの教育だろうと、私たちはどの子どもの背後にも、それぞれの『時間の花』が見えてくるようなそういう人間になっていることが、およそ教育というものをおこなう前提になるのではないでしょうか」と
エンデ 
ええ、いつでも重要なのは、理屈ではなく、内的な姿勢です。人間と人間が向き合ったとき、そのお互いが心を相手にどう向けているか、それは千万言をついやす議論を超えて、ものをいいます。今の世の中では論じて解決しようとする傾向が強すぎます。精神(ガイスト)の認識も、その人の心の姿勢、人間関係上の能力にまでなりきらなければなりません。でないと、けっきょくは人を動かしません。
シュタイナー学校についても、私は観念的に論じられることを好みません。シュタイナーの教育講座の書物に通じたみごとな理論家が、授業の現場ではあまりよくない教師だ、ということもありうるでしょう。すべてを書かれたとおりにやっているから成功する、というわけではない。教育は、ひとつの芸術なのだから。そして芸術とは、きょう何度も話したように、創造のプロセスなのだから、一瞬一瞬が前例のない瞬間だ。子どもに対しながら、その一瞬一瞬を新しく生み出す力――私がファンタジーと名づけるこの力こそ教師に求められる才能です。


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エンデと語る 作品・半生・世界観
朝日選書306
1986年 6月20日 第1刷発行
1991年11月30日 第11刷発行
著者 子安美智子
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by sadomago | 2007-05-15 13:11 | シュタイナー


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