2006年 10月 11日
Exciteニュース http://www.excite.co.jp/News/ 「私を撃って」と犠牲少女 アーミッシュに驚き [ 10月07日 20時45分 ] http://www.excite.co.jp/News/world/ 20061007204530/Kyodo_20061007a346010s20061007204530.html 米東部ペンシルベニア州で2日、キリスト教の一派アーミッシュ運営の学校が襲撃された事件で、殺害された女児(13)が年下の子どもを逃がそうと「自分を先に撃ってください」と容疑者の男(32)=犯行後に自殺=に申し出ていたことが7日、生存者の証言で分かった。暴力を否定するアーミッシュの人々の独特な考え方を米メディアは驚きをもって伝えている。 米メディアが住民らの話として伝えたところでは、この女児の妹(11)も自分を撃つように男に訴えたという。妹は撃たれて肩などを負傷した。 事件後には、男の妻や3人の子どもが多くのアーミッシュの人々に抱擁される場面もあったほか、男の妻は犠牲者の葬儀に招かれたという。出席したかどうかは不明。 児童に対する暴力の専門家はAP通信に、アーミッシュの許しの文化が生存者の癒やしにつながると指摘した上で、復讐(ふくしゅう)を求めるより許す方がはるかに大切だと語った。(共同) 件名:【PUBLICITY】1479:彼女が書き続けた理由 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ ■■メールマガジン「PUBLICITY」No.1479 2006/10/12木■■ ▼先に紹介した投稿にあった、 「アーミッシュの赦しと、アンナさん殺害の無念さの中で情報 を集め、彼女が殺されてしまう世界の構造を糾弾する行為とは 、『今立っているこの場所で、自分に可能な限りのことをする 』という意味で、とても近い」 という一文について、考えている。いいことを書いてくださっ た。 この二つの行為──祈る(信じる)ことと知ること(によって 行動すること)──は、読者の指摘してくれたとおり、近い。 近いというよりもむしろ、ある「一つの事」をめぐる、決して 切り離して考える事のできない行為なのかも知れない。 彼女の死から、ぼくにとって生きたものを創造するためには、 どうも、この「一つの事」に──つまり「ぼく自身の死」に、 ぶつかる。ぶつかる以上、噛み砕かないと先に行けない。 当然、こんな難事は簡単に噛み砕けない。しかし少なくとも、 噛み砕く必要はない、と打棄(うっちゃ)って書き進むより、 噛み砕く必要がある、と弁えて書く方が、浮き足立ずにすむ。 ▼彼女の射殺を考えるときの一つの陥穽は、「死」なのだ。論 者の持っている死生観、といってもいい。彼女の死を論ずる人 は、論ずることによって、自身の死をどう捉えているのかが問 われる。論じた瞬間にそう問われることを自覚した論でなけれ ば、読むに値しないと今ぼくは感じている。 だからといって、彼女は自分の死を願って書き続けたのではな い。ここが重要だ。彼女の「死を讃える」風潮は峻拒しなけれ ばならない。ただ彼女の仕事を観ることだ。 殺されたくなかったのに、しかも、それを書けば殺されるかも 知れない現実を誰よりも知っていたのに、それでも彼女は書か なければならなかった。裁判で証言しなければならなかった。 その根本の理由は何なのか。 それを問う力が、そして答える力が、この社会にはあるのか。 あるとすれば、それは果たして活かされているのか。──そう 問われていると、ぼくは感じている。 ▼彼女が生命を賭けて守ろうとしたものは何なのか。それはお そらく、平々凡々とした「人間の生活」だったろう。他人のそ れが犯されることは、自分のそれが犯されることだと感じてし まう心を、あなたは持っていないだろうか。 それを守るための──人間の生活を守るための「屋根」として 「壁」として、公共性や社会正義を捉えていた。 チェチェンの人々は、屋根も壁も壊され、吹きさらしの暴力に 嬲られている。自らの意志と関係なく、問答無用の恐怖に晒さ れている。 日本語に訳された彼女の2冊には、彼の地で踏みにじられ、ず たずたに引き裂かれた、無数の「人間の生活」の死骸が描かれ ている。その死骸を背負って立ち続けた、彼女の全身が映って いる。巨大な「リヴァイアサン」に立ち向かう彼女の理智が、 頁の隅にまで滲んでいる。 そして今は、彼女の死が、万人の死を照らしている。 今まで人間の生活を照らし続けてきた、多くの死とともに。 ▼死と向き合わずにすむ社会、などあり得ない。それは、死と 向き合いたくない人々の多い社会に過ぎない。そういう社会は おそらく、死を徹底的に排除するか、容易に賛美するか、両極 端に揺れ続ける社会になりやすい。目を背けられるうちは背け 続け、背けようがなくなったら、直接目を合わせずにすむよう に崇め奉る。 目の背けようのない死を知った時、殉死として讃美することは 簡単だ。ゆえにしばしば無責任だ。対して、はからずも死によ って完成してしまった、その人の社会的価値の考察と定着は、 至難だ。 似ているようでまったく違う、両者を分ける契機が乏しい。 ぼくは、ニッポン社会の底流には、死を極端に賛美する巨大な 傾向があるのではないか、と疑っている(たとえば「忠臣蔵」 に集まる人気。「不祥事」の際に辞職(社会的自殺)すればこ とがおさまる、という空気)。 ▼人はしばしば【考えたくなくなる】。そして人はしばしば、 【考えたくなくなる】自分の弱さを、【(あまりの衝撃で)考 えられなくなる】という便利な言辞で塗(まぶ)す。 嘘だ。考えられない、のではない。考えたくないのだ。 死を我が事と考えたくない人が、しばしば死を讃美する。 (生を我が事と考えたくない人も、しばしば生を讃美する。) 生死を忘れた思考停止が社会を覆う。言論の目的がぼやける。 祈ることも、知ることも、己の弱さを糊塗する隠れ蓑と化す。 そうなれば、言葉が無限に軽くなる。無限に、だ。 彼女が書き続けた理由が、ぼくが書き続ける理由と、どう関係 しているか。それを問い続け、関係づけ続ける事は、はっきり いって難しい。しかし、不可能ではない。 なぜならそれは、あなたが読んでくれるからだ。 freespeech21@yahoo.co.jp http://www.emaga.com/info/7777.html ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 関連ページ マスメディアが民衆を裏切る、12の方法 http://takeyama.jugem.cc/
by sadomago
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