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2006年 07月 04日
24時間の明晰夢 vol2
24時間の明晰夢--夢見と覚醒の心理学〈新装版〉

著者:アーノルド・ミンデル
訳者:藤見幸雄+青木聡
2001年11月10日 初版第1刷発行
006年5月1日 新装版第1刷発行
発行:春秋社

第一部 無為
 第一章 《24時間の明晰夢》 P4
 
| ドリームタイムと物理学 | P10~
 アボリジニーのドリームタイムの伝統によれば、すべての物、人々、そして出来事は、原初の想像緒力の残響 (エコー) である。あらゆる地域の先住民たちは、大地を敬い、崇拝している。彼らは大地を創りあげている神秘的なドリーミングの力を感じているのだ。あるアボリジニーの長老はこう言う。 「あなたの心の中に夢があるように、この石の内には火打石が生きている。そのエッセンスはドリームタイムからこの石の内に準備されていたのだ」 
 現代の科学者たちはそのようには考えない。科学者たちは教わった通りに、人がまず石を観察して、そこから火打石を意識的に作り出そうとしたと考えている。それに対して、アボリジニーの長老は、石はそれ自体の内にドリーミングを持っていると言う。そして石が、すでに内側に存在している火打石のエッセンスを顕現させるために、 「観察者」 の手と 「交流」 し、あるいは 「観察者」 の手を 「夢見る」 とされる。言い換えれば、あなたが観察して、何かをするのではない。あなたは対象に惹きつけられ、その対象のドリーミングの力があなたに行動を起こさせるのである。 このように現代科学とアボリジニーの教えは異なっているが、両者には似たような考え方もある。先住民の人々はドリームタイムのことを、すべての存在が発生する根源的かつ本質的な力だと言う。一方、量子物理学は、そこから現実が生成する不可視の数学的な 量子ポテンシャル について述べる。
 ご存知かも知れないが、量子の世界は、直接的に見ることも測定することもできない。ヴェルナー・ハイゼンベルグがかつて述べたように、量子ポテンシャルとは 「出来事が起こる傾向」 を示している。私はは最新刊 『クォンタム・マインド――物理学と心理学の境界』で、ドリーミングの力を物理学における量子ポテンシャルの観点から理解できることを示唆した。
 出来事が起こる傾向、あるいは量子ポテンシャルの意味を、心理学的な体験を通して探求してみよう。たった今、あなたは座るか寝るかしてこの本を読んでいるだろうが、自分の身体にはどのように動きたい傾向があるかを自問してほしい。まだ動かないで、そうした傾向を時間をかけてゆっくり感じてみる。次にそうした傾向にまかせて自分の身体を動かしてみる。あなたの内側の最も深い部分の傾向に従って動きながら、自分の身体が作り出している動きに注意を向ける。それはあなたにとって何らかの意味をもっているだろうか?

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by sadomago | 2006-07-04 13:14 | プロセスワーク
2006年 06月 30日
自分を変える気づきの瞑想法
自分を変える気づきの瞑想法
2004年11月23日 弟1刷発行
著者:A・スマナサーラ
発行:(株)サンガ

第4部 知恵の瞑想
    ―― 悩みなく生きるためのヴィパッサナー瞑想法
明確に見ると悩みが消える
 ※2番目に紹介する瞑想法は、ブッダがこころの汚れを完全に落として、実際に悟りを開いた瞑想法です。
 悟りを開くというのは、こころにある悩み、ストレス、苦しみ、不安がすべてなくなり、もう二度と,
怒り、欲、憎しみ、嫉妬などの感情に悩まされないこころの状態を得る、ということです。
 悟りとは神秘的な何かではなく、完全なこころの安定です。ブッダは他にもさまざまな瞑想法を試しましたが、他のどの瞑想によっても、悟りはひらけなかったのです。
 ヴィパッサナー瞑想の 「ヴィパッサナー」 とは何でしょうか。
 パーリ語の 「ヴィ」 は 「明確に」 を意味し、 「パッサティ」 は 「観察する、見る」 を意味します。
 ですから 「ヴィパッサナー」 とは、「明確に見ること」。 ヴィパッサナー瞑想は、観察する能力を育てる瞑想法なのです。 「観察」 こそが 「知恵」 の入り口です。
 観察するなんて小学校の理科みたい、生きるうえで、いったい何の役にたつのだろうとお思いですか? 
 理科、すなわち 「科学」 の世界では、古来、物質のことしか考えてきませんでした。医学にしても物理学にしても然りです。
 ヴィパッサナーは 「こころ」 の科学です。観察するのは 「物」 ではなく 「こころ」 です。これまで誰も、こころを科学してこなかったのです。
<中略>
 私たちはいつでもどこでも始終 「思考」 しています。 「妄想」 「雑念」 「主観」 「感情」 などと言い換えてもいいでしょう。途切れることなく、ごちゃごちゃあれやこれやと考えているのです。
 これら 「思考」 の渦によって目はくもり、ありのままに事実を見ることができなくなってしまっています。 
 また、何か事情があっても、 「感情」 が割り込んでくると、こころは事実を否定します。
<中略>
 次から次へと目的を作って先のことばかり考え、過程はどうでもいい、ということになってしまっています。
<中略>
 本を読みながら、 「今日の晩ご飯は何にしよう」 とか 「さっきの喧嘩、誤っておけばよかったなあ」 などといろいろ考えていたらどうですか。ものすごく時間がかかるでしょう。何も考えずにさーっと読んでみると、内容も頭に入るし、短い時間で読めるのです。
 無駄な 「思考」 は莫大なエネルギーの浪費です。




 ※1番目=サマタ瞑想(こころを深く落ち着かせる方法。慈悲の瞑想、いつくしみの瞑想もその一種。 他に、ヨガ、念仏、音楽鑑賞、etc)

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by sadomago | 2006-06-30 12:51 | とりあえずノンジャンル
2006年 06月 29日
疲れていても瞑想した方がいい?
自分を変える気づきの瞑想法
2004年11月23日 弟1刷発行
著者:A・スマナサーラ
発行:(株)サンガ

<目次>
実践 ヴィパッサナー瞑想をやってみよう! P105 
 ☐立つ瞑想・・・・P105
 ☐歩く瞑想・・・・P111
 ☐座る瞑想・・・・P115
 ☐日常の瞑想・・・・P123
 ☐嫌なことがあったときの瞑想・・・・P126

第5部 こまったときに ――― すぐに解決! 瞑想の疑問(Q&A)
いつくしみの瞑想について P130
思考・雑念について P137
瞑想中におこること P143
ヴィパッサナー瞑想について P157
 
Q 疲れていても瞑想したほうがいい?
非常に疲れた日が続く場合、瞑想は頑張ってしたほうがよいのですか?
疲れは無駄な思考のせいです。瞑想には明るく楽しく取り組んでください。
 瞑想を頑張るのはおろかなことです。「頑張ってご馳走を食べる、頑張って遊ぶ」などの言葉が成り立ちますか?
 瞑想でストレスも解消する。心身の疲れも取れる。穏やかになる。知恵もあらわれる。これを知っている人は 「やめろ」 と言われてもやるものです。
 疲れたときは 「瞑想や~めた」 と寝ても一向にかまいません。お尻を叩いて堵殺所へ追い込まれる豚のような気持ちで瞑想はしないものです。
 「やらなくては」 という強迫観念は怒りから現れるものです。瞑想に対して明るいイメージを作ってください。やる気にならない時はやめてください。
 疲れについて少しお話しましょう。仕事中など、いろいろなときに疲れがでますね。この 「疲れが出た」 というのは、いろいろな雑念が働いていたということなのです。仕事をしていていろいろなことを考えたり悩んだりすると、その時には疲れがたまるのです。
 からだそのものが疲れるということはそれほどありません。からだが疲れたというのもまた、ひとうの誤解なのです。


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by sadomago | 2006-06-29 16:56 | とりあえずノンジャンル
2006年 06月 28日
慈悲の瞑想
自分を変える気づきの瞑想法
2004年11月23日 弟1刷発行
著者:A・スマナサーラ
発行:(株)サンガ

第3部 いつくしみの瞑想
P55~
☆ 誰もがやさしさを期待する ☆
 次にわかってほしいのは、命あるものすべては、差別を嫌うということです。
 自分のからだの中の細菌でも、差別すると嫌がるのです。攻撃してくるのです。犬でも猫でも、差別されると猛攻撃するのです。
 どんな命でも、他人からやさしさを期待します。自分自身の命の尊厳を大事にするのです。命の尊厳を侮辱されると、ものすごく凶暴になって攻撃するのです。
 30年間いっしょに暮らした夫婦でも、もしだんなさんが奥さんのことを侮辱すれば、その関係はたちまち崩れてしまいます。その気持ちは、犬でも猫でも虫にでも同じようにあるのです。
 皆さん、簡単にゴキブリを殺すですしょう。ゴキブリは命を守るために必死で逃げるでしょう。皆さん、自分だけが生きていればいいと、他の命なんか構わず殺すでしょう。
 命のネットワークというのはそう簡単ではないのです。人間だけが偉いわけではないのです。命というのはすべての命がひとつのネットワークで機能しているのです。ひとつでも壊してしまうと、自分との関係が壊れてしまいます。ものすごく大変なことなのに、わかっていません。

<中略>

人間だけが偉いという考え方は、実に愚かな恐ろしい考え方です。まったく心理がなく、何の根拠も証拠もありません。
 仏教では、すべての命は一つのネットワークの中で、互いに関係しあっていると考えます。
 他人の協力がないと一瞬たりとも生きていられないのです。協力を受けて生きているのですから、自分も協力しなければなりません。協力をやめた時点で、ネットワークからはじき出されてしまうのです。
 ですから、命の尊厳というものを大事にしなければなりません。
 ゴキブリを見ても、ああ一生懸命生きている、仲間だなあと思ってもらいたいのです。仲間だと思った時点から、ゴキブリは攻撃してきません。ゴキブリも遊んでくれますよ。自分も嫌でなくなります。

『慈悲の冥想』の言葉
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by sadomago | 2006-06-28 13:10
2006年 02月 11日
「神との対話」-個人的な真実について―Vol2
「神との対話」-個人的な真実について―<普及版>(1)
著者 二ール・ドナルド・ウォルシュ
訳者 吉田利子
2001年1月30日 初版発行
株式会社サンマーク出版

P25~
多くの人は、神が特別な方法で、特別な人にだけコミュニケートすると信じている。そのために、自分で神のメッセージを聞く責任はないと思っている。ましてメッセージを受けとる責任(これは、ただ“聞く”のとはべつのことだ)はないと考えて、いつもほかのひとの言葉ばかり聞いている。神の言葉は誰かほかのひとが聞いていると決めつけ、そのひとたちの言うことを聞いているのだ。
神の言葉を聞いたという人たちのことを聞いていれば、自分で考える必要はなくなる。
大半のひとたちがわたしのメッセージに背を向けている最大の理由は、そこにある。自分自身が神のメッセージを受けとったと認めれば、自分で考え、実行する責任が生じる。他人の解釈を受け入れているほうが(たとえその他人が2000年前の者であろうとも)、いまこの瞬間にも受けとっているかもしれない神のメッセージを解釈しようと努力するより、はるかに楽で安全だ。
だがわたしはいま、新しいかたちの神とのコミュニケーションへ、あなたを導く。双方向のコミュニケーションだ。この方法へ導いたのは、じつはあなたのほうだ。わたしがいま、こうしてあなたのもとを訪れたのは、あなたの呼び声に答えたからだ。
 一部の、たとえばキリストのようなひとたちは、どうしてほかの人たちよりもうまくあなたとコミュニケーションがとれたのでしょう?
それは、ほんとうに耳を傾けようという意志をもっているからだ。聞こうと言う意志をもち、恐ろしくても、狂気のさたに思えても、まったく間違っているように思えても、コミュニケーションに向かって心を開きつづけるからだ。
間違っているように思われても、神の言うことに耳を傾けるべきだというのですか?
 間違っていると思うときには、とくに耳を傾けるべきだ。何でも自分が正しいと思っていたら、どうして神と語る必要があるのか。
自分が知っているすべてをもとに進み、行動すればよろしい。しかし、人間は時が始まって以来、ずっとそうしてきたことを忘れるな。その結果、世界がどうなったかを見てごらん。明らかに、あなたがたには何かが欠けている。理解していないことがある。あなたがたは、自分が理解したことだけを正しいと思っている。なぜなら、あなたがたにとって「正しい」というのは、自分が同意したことをさす言葉だから。したがって、自分が理解できないことは、はじめのうちは「間違っている」と感じる。
前進するには、「わたしが『間違っている』と思ったすべてがほんとうは『正しい』としたら、どうだろう?」と自分に問うしかない。
すぐれた科学者は、そのことを良く知っている。研究がうまくいかないとき、科学者はすべての前提を捨てて、一からやり直す。
偉大な発見はすべて「正しくない」ことを恐れない意思と能力によってなしとげられた。いまここで必要なのはそれだ。
自分はもう神を知っていると思うのはやめなければ、神を知ることはできない。神の言葉はすでに聞いたと思うのをやめなければ、神の言葉は聞こえてこない。あなたがたが自分の真実を語るのをやめなければ、わたしの真実をあなたがたに語ることはできない。
でも、わたしが教えられた神についての真実は、あなたからきたものでしょう。
だれがそう言ったのか?
ほかの人たちが。
ほかの人たちとは?
指導者たち。聖職者たち。ラビたち。僧侶たち。本。それに聖書、そうだ、聖書です!
それは権威のある根拠ではない。
権威のある根拠ではないんですか?
そのとおり。
それでは何が権威のある根拠なのですか?
 自分の感情に耳をすますことだ。自分の最高の考えに耳を傾けなさい。自分の経験に耳を傾けなさい。そのどれかが、教師に教えられたことや本で読んだことと違っていたら、言葉の方を忘れなさい。言葉は真実の伝達手段として、いちばんあてにならない。
あなたに言いたいこと、たずねたいことがたくさんあります。どこから始めたらいいのかわからないくらいに。
たとえば、どうしてあなたは姿を現さないのですか。あなたがほんとうに神なら、どうしてわたしたちみんなが理解できる方法で現れてくださらないのですか。
 わたしは何度も、何度も現れている。いまもこうして現れている。
いや、そうじゃないんです。わたしが言いたいのは、疑いの余地のない現れ方、否定しようのない現れ方のことです。
たとえば?
いま、わたしの目の前にあらわれるとか。
いま、そうしているではないか。
どこに?
あなたが見るものすべてに
そうじゃないんです。わたしが言うのは、疑いの余地のない現れ方です。誰も否定できないような現れ方です。
 それでは、どんな方法ならいいというのか?どんなかたち、どんな姿で現れてもらいたいというか?
ほんとうのあなた自身のかたち、姿で。
 それは不可能だ。わたしには、あなた方が理解できるかたちも姿もない。わたしは、どんなかたちや姿になることもできるが、そうすれば誰もが、自分の見たかたちや姿が多くのなかのひとつにすぎないとは思わず、それこそが神の唯一の姿だと思いこむだろう。人は、「見えないもの」ではなく、見たものをわたしだと信じる。しかし、わたしは偉大なる「見えざるもの」であって、ある瞬間のかたちや姿ではない。ある意味では、わたしではないものもすべてわたしなのだ。わたしは「わたしではない」ところからやってきたのだし、つねにそこへ戻っていく。
ところが、わたしがあるかたちや別のかたち――ひとに理解できるかたち――をとると、ひとはそれがいつもでも変わらぬわたしだと思いこむ。
そこで、べつのひとにべつのかたちで現れると、最初の者は、二人めに現れたのは神ではないと言う。なぜなら、二人目に現れたわたしとは違う姿だし、べつのことを言うからだ。だから、神のはずがないと言う。
どのようなかたち、方法で現れるかは重要ではない。どのような方法を選び、どのようなかたちで現れようとも疑いの余地がなくなることはありえない。


>>>正しい祈りとは、求めたりすがったりすることでは決してなく、感謝である
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by sadomago | 2006-02-11 17:54 | 神との対話
2005年 12月 04日
瞑想の恩恵をめぐる科学的研究
hotwired
http://hotwired.goo.ne.jp/

CULTURE
2003年9月16日 2:00am PT

瞑想の恩恵をめぐる科学的研究
http://hotwired.goo.ne.jp/news/culture/story/20030922207.html

ボストン発13~14日(米国時間)、マサチューセッツ工科大学(MIT)で開催された『精神の研究』会議に、チベットの宗教指導者ダライ・ラマ14世が現れたとき、深紅の僧衣に同色のランニング・シューズという姿でも、背広姿の学者たちの中で違和感はほとんどなかった。

 ノーベル平和賞も受賞している68歳のダライ・ラマは、僧侶になる運命でなかったなら、きっとエンジニアになっていただろうとこれまで何度も述べている。科学の魅力への止むことのない興味を抱き、物事の仕組みを理解することに生来の好奇心を持っている。

 だからこそこの会議で、ダライ・ラマが神経科学者、心理学者、行動学者たちと議論を交わしたのは、何ら驚くことではない。会議では、科学的な理解と仏教的な理解が互いに交差する可能性のある道を探り、2500年におよぶ仏教の瞑想修行から現代科学が何を学び取れるかが議論された。

 この会議は、MITの『マクガバン研究所』と、コロラド州にある『精神と生命研究所』が共同で開催したものだ。ダライ・ラマの尽力で17年前に発足した異色の対話シリーズの第11回目にあたり、苦しみを取り除く実践的手法を世界に提供し、人間界の不和すべての根源にある破壊的な感情と衝動を抑制することを目標にしている。

 これまでの会議はすべて、インドのダラムサラにあるダライ・ラマの居所でプライベートに開催され、討議の記録は後に書物にまとめられた。しかし今回は会議が一般公開され、仏教徒と科学者が聴衆の前で、将来的に共同で研究を進めるための戦略と方法論についての構想を話し合った。

 このような協力を行なうのに、これほど絶好のタイミングはないと、精神と生命研究所のアダム・イーグル会長は述べる。仏教的信条に対する一般の関心がかつてなく高まっているのは、会議後の14日夕に催されたダライ・ラマの講演(写真)のチケットを、1万3000人もが購入したことからもわかる。

 「われわれは現在、このようなタイプの研究を可能にする驚異的なテクノロジーを入手できる、史上初の幸運な時代に生きている」とイーグル会長は述べた。

 fMRI(機能的MRI)など、最近のテクノロジー発達のおかげで、瞑想中の僧の頭脳の奥深くにまで探りを入れたり、映像を撮ることさえできるようになっている。

 ウィスコンシン大学『感情神経科学研究所』の所長、リチャード・デビッドソン博士は昨年、会議のプレゼンテーションで、fMRI装置を使って僧侶マシュー・リカード氏の脳をマッピングして見せた。

 30 年にわたって瞑想的実践の研鑚を積んだリカード氏が、仏教徒たちの間で慈悲の瞑想と呼ばれる修行を行なっている間、デビッドソン博士はその頭脳の活動を計測した。同時に撮影した写真は、リカード氏の頭脳の前頭葉前部皮質の左側(額のすぐ内側)に、非常に活発な活動があったことを示している。

 快活で幸せな気性の人は一般的に、前頭葉前部皮質の左側の活動が盛んなことが多い。この部位は、幸福感、喜び、熱意と関連づけられている。不安、恐怖、鬱にとらわれやすい人は、前頭葉前部皮質の右側が、盛んに活動している割合が高い。

 しかし、リカード氏の脳の左側が示した明るさは、デビッドソン博士が計測した他の被験者150人に比べると極端に明確だった。リカード氏が僧侶になる前から、同じ結果を示していたのかどうかは誰にもわからない。しかし幸福感におけるリカード氏の結果が飛び抜けていたことから、デビッドソン博士は、瞑想中の僧侶を研究すれば、より幸福で苦悩の少ない気性が、瞑想によってどのように頭脳の中で養われるのかを解明する役に立つと考えている。

 仏教徒たちは長く、瞑想が心と身体に大きな恩恵をもたらすと主張してきた。しかし経験主義の世界では、個人の心証だけではない証拠が要求される。カリフォルニア州北部にあるアバヤギリ僧院の院長、アジャン・アマロ氏は13日にこう述べた。「人間は、データという偉大な神を信じている」

 ダライ・ラマはこのため、瞑想が医学的、感情的な利益をもたらすことを研究者たちが科学的に証明することを期待している。そしてこの研究成果を、仏教という宗教的な根源からは切り離し、苦悩を和らげ幸福を見つけるための世俗的な方法として、世界に提供することを目指している。

 ブッシュ大統領との会見も含め、多忙な米国ツアーのなか、ダライ・ラマは科学者たちとの会合が、今回の旅程で最も重要な部分だと述べた。

 MIT のクレスギ講堂をぎっしりと埋めた、俳優のゴールディ・ホーンやリチャード・ギアも顔を見せた全席売切の聴衆を前にして、ダライ・ラマは靴下を履いた足を組み、クッションがたっぷり詰まったソファに腰掛けて、皮肉っぽさの交じる陽気さと茶目っ気のある物腰で観客を魅了した。

 会議の前に行なわれた記者会見では、仏教徒が、科学者たちとの出会いを通じて何を求めるのかが話題になった。ダライ・ラマは次のように述べている。「宇宙論、神経生物学、物理学、心理学どれも仏教学者が真に研究する必要のあるものだ」

 しかし、聞き手たちがなるほどと頷こうとする寸前に、すかさず「論破するためにね!」と付け加えた。

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by sadomago | 2005-12-04 14:10 | とりあえずノンジャンル