タグ:エンデ ( 4 ) タグの人気記事

2007年 05月 15日
エンデと語る Vol4
P141~
エンデ 
シュタイナー自身いうように、モラルとは直感です。お題目ではありません。そして直感とは、明々白々たる体験のことです。それが何であるかということを定義できる哲学者は、この世にいません 2×2=4、これは「明白体験」です。これをさらにさかのぼることなど、できないのです。今のこの瞬間、自分が何をなすべきか、それをこの明白体験から瞬時に決断し、行為する、それがそのままモラーリッシェ・ファンタジーです。
子安 
 するとその場合の「モラル」というのは、たんなる善行とかのレベルをこえて、もっとずっと広がるのですね。1日に3つの「小さな親切」を自発的にすませたから、これでいいなんてものではまったくない。さっき話題になった『鏡の中の鏡』の第2話、例の「そもそも課題がどこにあるのか、を見つけ出すことが課題だ」という、あのかわった試験問題も、一種のモラーリッシェ・ファンタジーを要求しているのではないでしょうか。


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by sadomago | 2007-05-15 13:11 | シュタイナー
2007年 05月 11日
エンデと語る Vol3
P100~
子安 
 物質(マテーリエ)と精神(ガイスト)も、そのようにメタルの両面であり同一であるということですね。
エンデ 
 そうです。ただここで、古いありかたでの精神世界知覚というのは かつてのヨーロッパにあったものにせよ、あじあにあったものにせよ、この主観と客観の世界の分立というフィクションのプロセスで一度はもろに否定されなければなりませんでした。どこを見わたしても、すべて古代の文化は 自然科学の諸条件に出会ったところでさしあたり崩壊したという事実が確認できる。宗教的にも、倫理的にも、文化的にも、かつての世界の基礎となっていたものは すべて否定されました。
 さてそこでその後の歴史プロセスがあって、今 この20世紀の終わりに目指そうとする精神性の回復は、けっして先祖返りであってはならないのです。なんらかの昔の文化形態に帰るということは意味もないし、不可能です。それを試みようとしたら、ナチス・ドイツのようになるか、最近のホメイニのようなケースになります。それでは不幸な結果しか生じない。うまくいくことはありえない。現代の私たちがとるべき方法は、ここを通って突き抜けること、つまり、世界が主観と客観に二分されたとする仮説を、いちど考えて考えて終点まで考え抜いてみる、そして ちがう、それはウソだ、とはっきり見抜く、それを自分でやってみるのです。ほんとうにそれはあたっていない、主観と客観は切り離せない同じひとつのものだということを認識するのです。古い同一性に帰るのではなく、同一性を新たに発見するのです。そうすれば、自然科学の中でも新しい方法にいたりうるでしょう。自然科学とテクノロジーを否定するのではなく、あらたな自然科学的態度がうまれるのではありませんか、そして、ひょっとしたら、それこそ願わしいことなのだけれど、新しい文化と呼べるものに到達できるかもしれない。


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by sadomago | 2007-05-11 13:02 | シュタイナー
2007年 05月 09日
エンデと語る Vol2
子安 
 その意識とは、ひとことでいえば、「きわめて具体的な精神(ガイスト)世界の現実」にめざめた意識ということになりますか。 「それは外なる物質世界とつながっており、そのつながりを私たちは体験しうる」 と、エンデさんがおっしゃるような意味で――。さっきも、ある種のことがらは、見えるためには、見ようという意志をはたらかさねばなりません。と言われました。その意志を育てる方向が、意識の変容になる、ということでしょうか。
エンデ 
 そうです。けれど、私は、それがもうある程度までは、おのずと育っていくだろうと思います。いや、新しい精神性の知覚という意識段階は、人類進歩が近い将来に足をふみ入れるステップのはずですが、それは 「突然変異」 的に生じるでしょう。 ロックが見たような世界を知覚する人間の数が、そのうちいきなり急激にふえると思うのです。 はじめのうちは、そういう人たちは、精神病院に入れられるかもしれません。あるいは自分からすすんで精神病院に行くでしょう。なぜなら、自分が知覚したものを、自分自身でも何のことだかわからなくて、これは病気だと思うかもしれないから。でも、その知覚能力は、人間のなかで、確実に目覚めてきます。大昔の人間にはだれにもあった力が、今ふたたび目ざめるわけです。現に私は、まわりにたくさんそういう例を知っています。 五感を超えた世界を知覚する人たち、なかにはそれで自身びっくりしている人がいます。 自分の見たものがいったい何なのか、これはどういうことなのか、と困惑しているのです。


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by sadomago | 2007-05-09 13:21 | シュタイナー
2007年 05月 09日
エンデと語る Vol1
P85~
エンデ
・・・・いいですか、古代ヨーロッパの神学では、人間の徳には「自然を超えた」ものが三つある、とされてきました。「自然の徳」がまず五つあり、これは、勇気、寛大、節度、正直、公正です。その他にあるのが「超自然の徳」、それは信、愛、希望の三つです。なぜ、超自然か? それは、これらの徳がいつも 「・・・だから」 ではなくて、 「・・・にもかかわらず」 おこなわれるものだからです。
 人間が希望をもつということ、それは自然のなりゆきを見て希望をさせられる理由があるから、もつというのではありません。どう見ても情勢は絶望的だ、そのとき 「にもかかわらず」 もつ希望だから、徳とされるのです。この世界に、愛する理由も見つからない。にもかかわらず、人間は愛します。事物が人間を愛させる方に向けてくれるからではない。
 信じる、にしても同じです。まわりじゅうの事実は何も確信させてくれない。にもかかわらず、究極的にはすべてに意味があるだろう、と人は信じます。合理的思考と自然のはこびそのままの枠内にとどまったら、希望をもたせてくれる理由なんか、ありはしません。けれども、そんな理由のあった時代は、これまでの歴史上いちどもなかったのです。昔をみてもそうでした。人間には、いつも絶望するにたる理由ばかりがありました。人間の歴史は、血と涙のあとでしかなかった、とさえ言えるでしょう。それにもかかわらず、信じた、愛した、希望した、だからこの三つは「自然を超えた徳」なのです。


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by sadomago | 2007-05-09 12:45 | シュタイナー