カテゴリ:シュタイナー( 10 )

2008年 03月 30日
魂のこよみ 第2週
第2週

思考の力が 果てしない
外なる感覚世界の中に
自分を見失うとき、
霊界が 人間の萌芽を ふたたび見つけ出す。
人間の萌芽は
おのれの種を 霊界の中に見出し、
そして おのれの魂の実を
みずからの中に
実らせねばならない。


ちくま文庫
魂のこよみ
ルドルフ・シュタイナー著
高橋 巖訳
2004年12月10日 第一刷発行
[PR]

by sadomago | 2008-03-30 00:00 | シュタイナー
2008年 03月 23日
魂のこよみ 第1週 復活祭の情景
第1週 復活祭の情景

太陽が 宇宙の彼方から
感覚に語りかけると
視ることの喜びが 魂の奥底から沸き上がり
陽光と ひとつになる。
その時想いが 自分のからだから
遠く空間の果てにまで流れ
暗く不確かに
人間の本性は 霊なのだと感じ始める。



ちくま文庫
魂のこよみ
ルドルフ・シュタイナー著
高橋 巖訳
2004年12月10日 第一刷発行
[PR]

by sadomago | 2008-03-23 00:00 | シュタイナー
2007年 05月 15日
エンデと語る Vol4
P141~
エンデ 
シュタイナー自身いうように、モラルとは直感です。お題目ではありません。そして直感とは、明々白々たる体験のことです。それが何であるかということを定義できる哲学者は、この世にいません 2×2=4、これは「明白体験」です。これをさらにさかのぼることなど、できないのです。今のこの瞬間、自分が何をなすべきか、それをこの明白体験から瞬時に決断し、行為する、それがそのままモラーリッシェ・ファンタジーです。
子安 
 するとその場合の「モラル」というのは、たんなる善行とかのレベルをこえて、もっとずっと広がるのですね。1日に3つの「小さな親切」を自発的にすませたから、これでいいなんてものではまったくない。さっき話題になった『鏡の中の鏡』の第2話、例の「そもそも課題がどこにあるのか、を見つけ出すことが課題だ」という、あのかわった試験問題も、一種のモラーリッシェ・ファンタジーを要求しているのではないでしょうか。


More>>>
[PR]

by sadomago | 2007-05-15 13:11 | シュタイナー
2007年 05月 11日
エンデと語る Vol3
P100~
子安 
 物質(マテーリエ)と精神(ガイスト)も、そのようにメタルの両面であり同一であるということですね。
エンデ 
 そうです。ただここで、古いありかたでの精神世界知覚というのは かつてのヨーロッパにあったものにせよ、あじあにあったものにせよ、この主観と客観の世界の分立というフィクションのプロセスで一度はもろに否定されなければなりませんでした。どこを見わたしても、すべて古代の文化は 自然科学の諸条件に出会ったところでさしあたり崩壊したという事実が確認できる。宗教的にも、倫理的にも、文化的にも、かつての世界の基礎となっていたものは すべて否定されました。
 さてそこでその後の歴史プロセスがあって、今 この20世紀の終わりに目指そうとする精神性の回復は、けっして先祖返りであってはならないのです。なんらかの昔の文化形態に帰るということは意味もないし、不可能です。それを試みようとしたら、ナチス・ドイツのようになるか、最近のホメイニのようなケースになります。それでは不幸な結果しか生じない。うまくいくことはありえない。現代の私たちがとるべき方法は、ここを通って突き抜けること、つまり、世界が主観と客観に二分されたとする仮説を、いちど考えて考えて終点まで考え抜いてみる、そして ちがう、それはウソだ、とはっきり見抜く、それを自分でやってみるのです。ほんとうにそれはあたっていない、主観と客観は切り離せない同じひとつのものだということを認識するのです。古い同一性に帰るのではなく、同一性を新たに発見するのです。そうすれば、自然科学の中でも新しい方法にいたりうるでしょう。自然科学とテクノロジーを否定するのではなく、あらたな自然科学的態度がうまれるのではありませんか、そして、ひょっとしたら、それこそ願わしいことなのだけれど、新しい文化と呼べるものに到達できるかもしれない。


More>>>>
[PR]

by sadomago | 2007-05-11 13:02 | シュタイナー
2007年 05月 09日
エンデと語る Vol2
子安 
 その意識とは、ひとことでいえば、「きわめて具体的な精神(ガイスト)世界の現実」にめざめた意識ということになりますか。 「それは外なる物質世界とつながっており、そのつながりを私たちは体験しうる」 と、エンデさんがおっしゃるような意味で――。さっきも、ある種のことがらは、見えるためには、見ようという意志をはたらかさねばなりません。と言われました。その意志を育てる方向が、意識の変容になる、ということでしょうか。
エンデ 
 そうです。けれど、私は、それがもうある程度までは、おのずと育っていくだろうと思います。いや、新しい精神性の知覚という意識段階は、人類進歩が近い将来に足をふみ入れるステップのはずですが、それは 「突然変異」 的に生じるでしょう。 ロックが見たような世界を知覚する人間の数が、そのうちいきなり急激にふえると思うのです。 はじめのうちは、そういう人たちは、精神病院に入れられるかもしれません。あるいは自分からすすんで精神病院に行くでしょう。なぜなら、自分が知覚したものを、自分自身でも何のことだかわからなくて、これは病気だと思うかもしれないから。でも、その知覚能力は、人間のなかで、確実に目覚めてきます。大昔の人間にはだれにもあった力が、今ふたたび目ざめるわけです。現に私は、まわりにたくさんそういう例を知っています。 五感を超えた世界を知覚する人たち、なかにはそれで自身びっくりしている人がいます。 自分の見たものがいったい何なのか、これはどういうことなのか、と困惑しているのです。


More>>>
[PR]

by sadomago | 2007-05-09 13:21 | シュタイナー
2007年 05月 09日
エンデと語る Vol1
P85~
エンデ
・・・・いいですか、古代ヨーロッパの神学では、人間の徳には「自然を超えた」ものが三つある、とされてきました。「自然の徳」がまず五つあり、これは、勇気、寛大、節度、正直、公正です。その他にあるのが「超自然の徳」、それは信、愛、希望の三つです。なぜ、超自然か? それは、これらの徳がいつも 「・・・だから」 ではなくて、 「・・・にもかかわらず」 おこなわれるものだからです。
 人間が希望をもつということ、それは自然のなりゆきを見て希望をさせられる理由があるから、もつというのではありません。どう見ても情勢は絶望的だ、そのとき 「にもかかわらず」 もつ希望だから、徳とされるのです。この世界に、愛する理由も見つからない。にもかかわらず、人間は愛します。事物が人間を愛させる方に向けてくれるからではない。
 信じる、にしても同じです。まわりじゅうの事実は何も確信させてくれない。にもかかわらず、究極的にはすべてに意味があるだろう、と人は信じます。合理的思考と自然のはこびそのままの枠内にとどまったら、希望をもたせてくれる理由なんか、ありはしません。けれども、そんな理由のあった時代は、これまでの歴史上いちどもなかったのです。昔をみてもそうでした。人間には、いつも絶望するにたる理由ばかりがありました。人間の歴史は、血と涙のあとでしかなかった、とさえ言えるでしょう。それにもかかわらず、信じた、愛した、希望した、だからこの三つは「自然を超えた徳」なのです。


More
[PR]

by sadomago | 2007-05-09 12:45 | シュタイナー
2006年 10月 18日
シュタイナー死者の書 Vol.4
シュタイナー死者の書 
2006年8月10日 第1刷発行
著者:ルドルフ・シュタイナー(1914年ウィーン連続講義)
訳者:高橋 巌
筑摩書房 筑摩学芸文庫

本書は1989年9月30日 イザラ書房から刊行された『ルドルフ・シュタイナー選集』第十巻『死者の生活を改題・改訂したものです。』


第2部第二講
P105~
 この身体離脱によって、私たちは死から新しい誕生に到るまで遡ってきた領域に本当に参入するのです。私たちは時間を遡り、この地上生活以前の人生に到ります。その人生での私たちは、この地上生活に対しては次のように感じます。――「一体、そこでの私の未来はどのようなものなのだろうか。一体この後に何が現れるのだろうか」。
 この問いに答えるために、私は公開講演の中ではそれほど厳密には語れなかったいくつかの事柄について、もっと厳密にのべなければなりません。そうすることによって、私たちは死から誕生までの領域に、具体的に入っていくのです。
 私たちはこれまでに自分が辿ってきた霊的生活を辿ることによって、身体から離脱し、それと共に空間からも離脱しました。このようにして「今」から「昔」へ戻ることは、もうひとつの身体離脱よりもはるかに高次の能力を必要としますし、霊学研究者にとって、昨日述べた空間的身体離脱よりも無限に大きな意味を持っています。魂の深い内面性に関わる理解は、今述べた道の上でのみ可能だからです。そこで皆さんに、人生の微妙で内密な生活の背後にまで到るにはどうしたらよいかを知っていただくために、まずひとつのことをお話しておこうとおもいます。

More>>>
[PR]

by sadomago | 2006-10-18 13:46 | シュタイナー
2006年 10月 13日
シュタイナー死者の書 Vol.3
シュタイナー死者の書 
2006年8月10日 第1刷発行
著者:ルドルフ・シュタイナー(1914年ウィーン連続講義)
訳者:高橋 巌
筑摩書房 筑摩学芸文庫

本書は1989年9月30日 イザラ書房から刊行された『ルドルフ・シュタイナー選集』第十巻『死者の生活を改題・改訂したものです。』


第2部第二講
P101~
・想起力による道

 昨日の課題は、思考、感情、意志、知覚のそれぞれを取り上げ、それらについて秘境的な立場から経験したことの内容をお伝えすることでした。そのような経験が、魂の内面の本質を知ろうとして、身体を離脱したときには与えられるのです。
 さて、今日の課題は、別な側面からこの同じ経験内容を語ることです。霊学の観点から見てもさまざまな側面から考察しなければ、人生の本当のところは理解できません。
 昨日述べたことを思い返してみましょう。昨日は身体を離脱した人間の魂が、自分の身体 ( およびそれに関連のある物質界 ) を振り返って眺めるときに見えるものや、身体を離脱した人間の魂、つまりアストラル体と自我が、霊的空間の中でますます力を強めていくときに体験するものについて述べました。けれどもこの同じ事柄を考察するのに、それとは異なる道もあるのです。存在の謎を解くには、事柄をさまざまな側面から考察する必要があるのですが、このもうひとつの道が、真の霊的考察には特別重要になるのです。
 昨日述べたのは、魂が身体から離れて霊的空間の中へ赴き、空間的に身体の外で生き始める道でした。しかし 「 身体離脱 」 には次の道もあるのです。それはこれまで以上に自分の内部に没入することで、自分から脱する道です。私たちは魂の内部の、霊的経験にもっとも似ている働きである記憶力の助けを借りて、霊界へ赴くことができます。何かを知覚し、思考し、感情を持ち、意志するだけでなく、それらの体験内容を記憶内容として保持することによって、私たちの内面生活を霊的なものに変えるのです。私は、今回の公開講演 (4月8日の公演のこと) で、フランスの哲学者のベルクソンのことに触れました。ベルクソンは、魂の中にある記憶内容を身体とは直接関係ない 「 魂の内面性 」、魂が生み出す純粋に霊的・魂的なものと見做(みな)さなければならない、と述べているのです。

More>>>
[PR]

by sadomago | 2006-10-13 14:05 | シュタイナー
2006年 10月 12日
シュタイナー死者の書 Vol.2
シュタイナー死者の書 
2006年8月10日 第1刷発行
著者:ルドルフ・シュタイナー(1914年ウィーン連続講義)
訳者:高橋 巌
筑摩書房 筑摩学芸文庫

本書は1989年9月30日 イザラ書房から刊行された『ルドルフ・シュタイナー選集』第十巻『死者の生活を改題・改訂したものです。』


第2部第一講
P95~
 さて、私たちは今、内なるものではなく、外なるものを振り返っています。なぜなら私たちが肉体の中にいる限りでの外なるものは、内なるものであり、肉体の中にいるときの内なるものは体の外にいる霊魂にとっては、外なるものなのですから。今、この外なる自分自身を振り返りますと、私たちにはこの肉体の成長と衰退が見えてきます。それは自分にとってのひとつの必然として見えてきます。物質界における自分の身体が成長し、そして衰退するのです。そしてこの肉体に成長を促したり、それを衰退させたりしているのが霊的存在なのだということを認め、そして物質界でのこの成長と衰退が肉体のどの部分でふたたび結晶化されるのかを知るようになります。この成長と衰退は、人間の骨格系と結びついているのです。人体には骨格が組み込まれているということの中に、人間が物質界で成長を遂げるときの形式が語られています。骨格系が人体内に形成されるときの形式によって、人間存在がどのように成長し衰退するかが決められているのです。自然が物質存在としての私たちの身体の物質的性質を硬化させて、骨格組織を生じさせるように働いていなかったとすれば、私たちの今日の姿は存在しなかったでしょう。こう言うと奇妙に聞こえるかもしれませんが、太陽存在として生きている支配的宇宙霊たちを、私たちは骨格系として敬うことができるのです。私たちは骨格系という人体の基礎設計が宇宙秩序の中にどのように描きこまれたのか、そして人体の諸器官どのようにそこにいわば取り付けられたのかを認識するようになるのです。

More>>>
[PR]

by sadomago | 2006-10-12 13:12 | シュタイナー
2006年 10月 11日
シュタイナー死者の書 Vol.1
シュタイナー死者の書 
2006年8月10日 第1刷発行
著者:ルドルフ・シュタイナー(1914年ウィーン連続講義)
訳者:高橋 巌
筑摩書房 筑摩学芸文庫

本書は1989年9月30日 イザラ書房から刊行された『ルドルフ・シュタイナー選集』第十巻『死者の生活を改題・改訂したものです。』


第2部第一講
P91~
・霊視した人間形姿

 この人間の姿は、なんと変わってしまっていることでしょう。私たちが今そこに見るものが私たち自身であることはわかっています。以前は皮膚に包まれ、血液が到るところに通っていた自分です。――しかし、そこにあるものはすっかり変化しています。眼であったものは、まるで二つの太陽のように輝いています。光の輝きに打ち震えるこの内なる太陽はピカピカと輝いてはまた暗くなりながら、四方に光を放射しています。変化した自分の両眼はそのように見えます。両耳は輝きを発し始めます。肉体としての耳は見えなくなりますが、輝きが感じ取れるのです。皮膚全体は一種の光線のように輝いています。しかしその光線は見えるというよりは、むしろ感じ取れるのです。このように、人間の姿は輝き、響き、磁気的、電気的なものとなり、光線を周囲に放射するものとなって現れます。しかし、このような言い方は物質界から取り出されたものだけに、完全にぴったりしているとは言えません。
 そのような宇宙が私たちの前に立っています。見霊体験の始まりにおける私たちの宇宙はこのようなものなのです。つまりその宇宙は光り輝く人間なのであり、その皮膚は感じ取れる輝きとして現れ、その眼は見ることができ、その耳は輝くことができるのです。私たちが自分の肉体を体の外から、霊の視点から見ますと、そのように見えるのです。
 このように体の外で、私たちが思考的な活動をしますと――とはいえ、それは通常の思考とは異なり、魂の奥深くにひそむ内なる創造的な力の現われなのですが――この光り輝く存在の内部がもっとよく見えてきます。そこには一種の力の渦のようなものが、この輝く形姿を貫いて流れているのです。そして、この私たちの光輝体の中に見えているその含有物は、外から見た私たちの思考のいとなみなのです。それは、私たちのエーテル体の一部分なのです。私たちはエーテル体の織り成す思考のいとなみを見ているのです。それは暗い波の還流のようにも、霊的な血液循環のようにも見えます。光輝体におけるこの暗い波は、体全体に独特の外観を与えています。私たちの肉体の中には、エーテル体が波打ち流れています。それを今、私たちは外から見ているのです。
 このようにして、体の外にあって、肉体とエーテル体がどのように見えるかを知るのです。

More>>>
[PR]

by sadomago | 2006-10-11 13:13 | シュタイナー