カテゴリ:神との対話( 14 )

2006年 06月 08日
はるあきら 安倍清明との対話Vol3
はるあきら
安倍清明との対話
著者:七浜 凪
発行:ナチュラルスピリット
2005年4月5日初版発行



前回の続き

P156~
 こういう経験が初めての妹は、とても真剣に考えていた。家族が周りにいる中、自分が集中できるときはいつなのか、自分の心の状態が完璧でないのに祈りをささげてよいものか、かつてやったことの無いこの試みをその場でちゃんとできるのか。それらを考えに考え、条件がなかなかクリアにならないことに落胆し、決行日と時間を決め兼ねていた。私は妹のその心境がよくわかった。最上のエネルギーを送受信したい。彼女はそう考えていたに違いない。しかし、現状は緊迫している。日々悪化していく義弟の状態を食い止めねば、何日か過ぎた頃、友人Aがいきなり言った。
「今日はどうだろう。今日が良い気がする。妹さんに聞いてみて」
妹は、「私は何もできないけれど、それでもいいのだろうか」 と少し不安げに言葉に発する。
私は 「心配ない」 と答えた。
 時刻は夜の10時と決まった。参加するのは友人Aと私、それから私の夫の3人だ。私の夫はインドネシア人でバリ島の出身だ。バリ島は 「神々の島」 と呼ばれる場所。村人たちは信仰心が厚く、常日頃から寺に通い、神と密着した暮らしをしている。私は、「神」についてはよくわからないが、バリ島に住み、実際にあの島が特有のバイブレーションを放つ土地であることを実感した。そんなわけだから、私の夫もある意味初心者ではない。つまり、今回やろうとしている試みで、力になってくれることはまちがいないであろうと思われた。
 事前に二つだけ共通の取り決めをした。遠隔で、しかもバラバラの場所で行うので、フィールドを作りやすいように、それぞれが一つのサークル上に座っているところをイメージすること。それから、統一した 「青」 の色のエネルギー (3人が思い浮かべ易いという理由から) を受け取り、流すこと。
 私と夫は夜10時になる10分ほど前から、暗くした部屋に香を焚き各々瞑想状態に入って行った。私はかなり早くに集中でき、自分の中からGO!サインが着ていたので、ちょうどよい頃合になった時に開始した。自分の姿が客観的に見えるようなビジョンが現れ、頭上に広がる宇宙が感じられる。準備のできた夫や友人Aがサークル (三角形) 上に存在を置いているのがなぜかわかった。私は宇宙に向かってたのんだ。
「どうか私に、義弟を助けるための青色のエネルギーを分けてください。」
すると、ウソのように、空から一筋の青色のエネルギーが私の頭に向けてしゅるしゅると入って来た。そのことに唖然としながらも、私はエネルギーが頭から下に向かって体を通るのを感じ、一旦留めた。このエネルギーを義弟に向けて飛ばすのだと思った時、今度は病院にいる義弟の様子がありありと見えてきた。暗く、機械の音が微かに響く。体を通る点滴の管。力なく横たわる義弟。私の意識はスキャンするように義弟の体の中を垣間見る。弾力の無い、色の悪い内臓。これは膵臓だろうか。その周りにあるただれた内臓。所々白っぽく変色しているように見える。
混濁した血。「内臓が熱い。濁ったものが体を回って細胞が悲鳴を上げている」という気がした。ここだ! 私の中から、青いエネルギーが一気に空間を越えて義弟のもとへ流れ込む。ほかの2人もいい具合に集中できているようだ。 私は、エネルギーを送りながら、病気に蝕まれたこれらの内臓が青のエネルギーをあてられ、次第に元の状態に蘇っていく様子を思い描いていた。弱った膵臓はみるみる力を取り戻し、正常に機能し始める。周りの内臓からは爛れが引き、さらに強い新しい膜で覆われていく。それらを循環していた濁った血液は、いつの間にか不純物の無い美しい血に変わり、すべてを一掃すべく体中を駆け巡る。義弟の体がすっぽりと青のエネルギーで包まれる。痛みに歪んでいた表情が少しずつ安らかになって行く。
 「驚くべき回復力だ。奇跡としか言いようがない」
 誰が言っているのかよくわからなかったが、そんな声が聞こえる。

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by sadomago | 2006-06-08 06:44 | 神との対話
2006年 06月 07日
はるあきら 安倍清明との対話Vol2
はるあきら
安倍清明との対話
著者:七浜 凪
発行:ナチュラルスピリット
2005年4月5日初版発行



 義弟が急性膵臓炎で入院したのは今回で2度目のことだった。前回、かなりの模範患者として医者の言いつけを良く守り、退院した後も順調だったのだが、その節制は残念なことに長くは続かなかった。医者が膵臓炎は怖い病気なのだと口を酸っぱくして言い続けたのにも拘わらず、本人は完全に治ったつもりでタカをくくっていたらしい。仕事柄、付き合いで酒を飲む機会も多く、時間も不規則で、そもそも、膵臓を患った患者には不向きな生活を強いられていた。 「酒と疲れは厳禁!」 という医者の指示は、退院後2ヶ月もすれば忘れ去られ、それまでと同じ生活が繰り返されていたらしい。
「今度運ばれて来る時は意識不明だよ」
 そう医者に脅かされても、生活自体を変えることは出来なかったという。
 かくして義弟は、激痛でのた打ち回りながら救急病院に担ぎ込まれることとなった。義弟の膵臓は前回とは比べ物にならないほど悪化していた。膵臓そのものが半ば爆発した状態で運ばれたため、すい液が体内に勢いよく漏れでて、ほかの内臓を溶かしていたのだそうだ。それだけ、すい液というのは強いものらしい。しかも、入院して一日たっただけで、漏れ出るすい液の範囲はあっという間に広がり、収集がつかなくなった。もはや、膵臓は機能を果たさなくなり、ほかの内臓は膵液によって火傷を負った状態になった。 

<中略>

「・・・・今までの患者さんのなかで、これほど膵臓が悪化した状態で来た方は稀です。透析をやった後、多いものは90パーセントの確立で様々なリバウンドが来ます。覚悟しておいてください。火傷状態になった内臓が腫れ上がり、高熱、全身のむくみ、痛みの激化に始まり、気管が次第に狭まって自ら呼吸ができなくなってきます。そうすると、意識障害も併発されます」

<中略>

>>>祈りを侮ってはならぬ
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by sadomago | 2006-06-07 13:47 | 神との対話
2006年 06月 06日
時を超える聖伝説
時を超える聖伝説
2002年1月20日 初版発行
著者:ボブ・フィックス
訳者:下山恵理菜
発売所:星雲社

第4章 オリオンのカルマの浄化
P69~

 イエスの教えは愛の中、純然たる愛の中にのみ存在する。 「汝のごとく汝の隣人を愛せ」 と彼は言った。しかしキリスト教という形をとる時、多くの憎しみや恐れが存在するようになる。 「汝のごとく汝の隣人を愛せ」 とは、他のキリスト教徒を間違っていると非難することではない。彼らは他のキリスト教徒をののしり、あろうことかこの世の有様さえののしる。この世は、隣人への恐れに満ち、時には自分の家族に対する恐れにさえとらわれるようになるのだ。
 彼らはキリストの教えを本末転倒して今それをキリストの教えだと言う。これはどういうことなのか?キリスト (救世主) とはイエスだけなのか? いや彼だけではない。クリシュナもキリスト。ブッダもキリスト。ソクラテスもキリスト。モハメッドもキリストなのだ。

 キリストとは、普遍的な愛と慈悲の心を持った者。普遍的な師であり、内に神のインパルスを有し、それを理解するものの事。キリストはすばらしいアイアムセルフを発現させ、教えと目的をもってそれを明らかにする者

 それがキリスト。そのキリストの教えはその後、その言葉を巧みに操るパワーを有した者によって、自己のパワーを強め他者のもつパワーを弱める道具となってしまった。
 さあ手放して、そしてリラックスしよう。わたしが浮上させた数々のイメージは、単なる今日的イメージではない。おそらくあなたがたが少々圧倒されるのは、そのためだろう。この地球の歴史をはるかに遡って、すべてのものがはじめて間違った使い方をされた時まで、あなたがたの過去を深く深く掘り起こしているのだ。そう、最初に間違いが起こった時まで、初めて邪悪に力が与えられた時まで。
 これは、邪悪に対する戦争をあなたがたに送り込むことではない。汝のごとく汝の隣人を愛せ。愛は悪を溶解する唯一のパワー。悪が留まる場所を持たなくなるとき、そして愛された時、悪は変化し癒される。
 これ以外のあなた方の敵を一掃する術はないのだ。愛する以外の行動はすべて、分裂と破壊につながる。生命は永遠であり、破壊や死は存在しない。生命はすべてを抱合する。だからこそ神の反応は常に 「それはよい」 「それはとてもよい」 なのだ。

神の最初の反応は、常に支持するというもの。だからあなたがたの最初の反応も、支持しますというものであるべきなのだ。

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by sadomago | 2006-06-06 12:56 | 神との対話
2006年 05月 25日
はるあきら 安倍清明との対話Vol1
はるあきら
安倍清明との対話
著者:七浜 凪
発行:ナチュラルスピリット
2005年4月5日初版発行

P20 L10~
人と出会うことは学びなのだ。自分に足りないものを補うため、何かを得るため。だから、出会いに偶然などない。ちゃんと意味があるのだ」
「私は今回、何のまなびだったのんだろう」
「情についての学びであろうよ。相手の思いやりや情に自分も情で答えれば、答えは情によるものしか得られぬ。しかし、流すべきは情ではなく、真の己の姿である、言葉だ。
 ありのままの自分と向き合い、それを伝えることは、己の魂に近づくということぞ。おまえはずっと魂の学びをしているのだよ、かさね。いわば、魂の修行だ」

「わたしは、魂がなにだかよくわからないよ。私のなかにあるものでしょう?こうやって話している自分と魂は別物なの?」
「常識や知識を取り去ったところで、真の己の声を聞くのだ。おまえが私に反応するように、おまえは己の魂が反応しているのを知っている。魂はいつもそこにあり、存在をアピールしている。おまえはそれを感じ取っているけれども、それが魂の声だとは思っていない。私とのコミュニケーションはそれを感じ取る練習のようなものだ」

P21 L10~
「魂に忠実に生きるということは、情や外的なものに惑わされず、真の自分で在りつづけるということだ。居心地が悪いと感じる人間に会った時、その人間の魂は外側を覆われすぎてきっと窮屈なのだろう。弱い自分、イヤな自分、恐れを持つ自分、それらも含めて、魂はさらけ出してほしいのだ。人がすべてを認めてほしいと願うように
魂もすべてを受け入れてほしいのだ。自分が認めなければ、悪い部分だと自分が思い込んでいる妄想も消えはしない」

 
P23 L1~
「本当の気持ちを言うことは『愛』なのだよ、かさね。それが学ぶ相手に対する真の礼儀なのだ。相手がどんな状態でどんな学びをしていても、それをとやかく言う権利は私たちにはないのだ。おまえにできることは、偽りのない己を見せることしかない。それがおまえの魂の学びでもあるのだ」
「いつまでも、ありのままの私でいるつもりなんだけど」
「ならばなぜ情で迷う。触れたくないエネルギーを持つ相手とは接点をもたなければいい。向かってくるようなら断ればいい。それでも来るようなら徹底的に交わすのだ。それはおまえの考えているような『意地悪』でも『かわいそうな事』でもない。今回の発端は情ぞ。そのための痛みぞ。憎悪のエネルギーに触れて自分を振り返るのは大切なことだが、そんなエネルギーを受けていながら、相手も汲み、自分もおさまりがつくよう納得するなど、中身がまるで抜けている。痛みはどうした。イヤだと思う気持ちはどこに葬り去る。おまえが受けた痛みは自分で思っている以上に強いものだ。人の思いとは、それほどに重いものなのだ。ダメージを受けたことを否定してはならぬ。それは心の強さや弱さとは別ものぞ。魂の声を無視して外側で固めようとしても意味はないのだ。情は相手のことを思っているように見えて、実は自己満足であったり、自分自身がそれにがんじがらめになって互いの学びを遅らせることになりかねない。つまらない情で相手に手を差し伸べるなぞ、傲慢以外の何者でもない。みな、自分の足でたつのだ」
「そうか。相手が間違っているように見えたり、劣っているように見えるのは私の傲慢さか。きちんとおもっていることが言えたり、断ったりできるようでなくちゃ、私もダメなんだ。それも愛だっていうのは、なんだかちょっとステキな話だなぁ。『はるあきら』はクールなイメージで愛って感じじゃないね」
「イメージもしくは好みの問題だ。冷たく見える者で愛に溢れた存在はたくさんいる。
おまえはわからないかもしれないが、おまえの魂は私がおまえに愛を送りつづけることにちゃんと反応している。心配はいらぬ。さあ、今日はもう眠るのだ。長時間、頭ばかり開いていては、体のバランスが取れぬ」

 言葉にしなかったが、「はるあきら」はちゃんと感じ取っているだろう。そうだ、この「はるあきら」
を愛おしく思い、感謝でいっぱいになる気持ちは、私の魂が反応している証拠。ここに流れているのは、情ではなく愛なのだ。
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by sadomago | 2006-05-25 13:29 | 神との対話
2006年 02月 24日
「神との対話」-個人的な真実について―Vol7
「神との対話」-個人的な真実について―<普及版>(1)
著者 二ール・ドナルド・ウォルシュ
訳者 吉田利子
2001年1月30日 初版発行
株式会社サンマーク出版

P72~
心配することはない。いままでの対話の中で、充分に理解できなかったことがあっても、まもなくすべてがはっきりわかるから。
知りたいことはたくさんあります。あるすぎるくらいです。それで、おおきなわかりやすい質問から始めたいと思います。たとえば、なぜ世界はこんな状態なのか?
 人間が何度も何度も神に問いかけてきた疑問だな。時のはじめから、ひとはそれを問いつづけてきた。この対話の最初の瞬間からあなたは、何故こんなふうでなければならないのか知りたがっていた。普通はこんな問われ方をしてきた。神が完璧であって、完全なる愛であるなら、どうして神は伝染病や飢餓、戦争、病気、地震や竜巻、ハリケーンといった天災、深い失望、世界的な災厄などをつくったのか。
この質問に対する答えは、宇宙のさらに奥深い神秘と人生のさらに高い意味のなかにある。わたしは神のすばらしさを示すために、あなたがたのまわりを完全ずくめにしたりはしない。神の愛を実証するために、人間が愛を実証する余地をなくしたりしない。
すでに説明したように、愛をしめすには、まず愛さないということが可能でなければならない。完全無欠の絶対世界は別として、それ以外では対極の存在なしには何も存在しえない。絶対の領域だけでは、あなたがたも、わたしも満足できなかった。わたしはつねにそこに 存在していたし、あなたがたも、その世界からやってきたのだ。
絶対のなかでは知識があるだけで、体験はない。知っていると言うのは神聖な状態だが、最大の喜びは、何者かで「在る」ということのなかにある。「在る」ことは、体験してのちにはじめて達成される。「知る」こと、「体験する」こと、何者かで「在る」ことの順に発達し、進化する。これが聖なる三位一体、神の三位一体である。
父なる神とは、「知る」ことだ。すべての理解の親である、すべての体験はそこから生まれる。知らないことは体験できない。
息子である神は、「体験」だ。父が自らについて知っていることを体現し、行動化する。
体験しなければ、何者かで「在る」ことはできない。
精霊としての神は「在る」ことだ。息子が体験したすべてを超越して、ただ存在する。単純に、このうえなくみごとに「在る」ということは、知ったこと、体験したことの記憶を通じてのみ可能になる。
単純に「在る」ということは至福である。神の状態、自らを知り、体験したあとの状態だ。これこそ、神がはじめから求めていたものである。
もちろん、父と息子という説明が性別とは何の関係もないことは、説明しなくてもわかっているだろう。たまたま、あなたがたのいちばん新しい書物にあるわかりやすい表現を使ったまでだ。もっと以前の聖なる書物では、母と娘という比喩が使われていた。どちらも正確ではなく、言うならば親と子というのがいちばんあたっている。あるいは、「生じさせるもの」と「生じるもの」という言い方が。
三位一体の第三の部分をつけ加えると、この関係ができあがる。
生じさせるもの、生じるもの、そして在るもの。
この三位一体のあり方が、神のしるしであり、聖なるパターンだ。三つでひとつ、それは崇高な領域のどこにでも見られる。時と空間、神と意識、微妙な関係はすべて、この形から逃れられない。
人生の微妙な関係を扱う者は、誰でもそのなかに三位一体の真実を認める。
宗教家の一部は、三位一体の真実を父と子と精霊と表現してきた。心理学者の一部は超意識、意識、潜在意識という言葉を使った。霊を扱う人びとは精神と身体と霊魂と言う。科学者の一部はエネルギーと物質とエーテルと考える。哲学者の一部は、ものごとは思考と言葉と行為において真実になるまでは、真実とはいえないと語る。時について議論するときには、過去、現在、未来の三つの時制しかない。同じく、概念的にも時は、以前、現在、以後の三つに分かれる。空間的な関係は、それが宇宙における一点を考えるにしても、自分の部屋の各地点を考えるにしても、ここ、あそこ、そしてその間と考えるだろう。ところが、素朴な関係においては、「その間」という認識はない。素朴な関係はつねに二元的であるのに、崇高な領域の関係は必ず三元的だからである。左右、上下、大小、遅速、寒暑、そして被造物のなかでは最も偉大な二要素である男女。これらの二者には、その間というものはない。一方か他方のどちらか、あるいはこうした二局的関係のなかで大きい、小さいの違いがあるだけである。
素朴な関係のなかでは、必ず対極が存在する。正反対のものが必ずある。日常の体験のほとんどはこちらにあてはまる。
崇高な領域の関係では、対極というものはない。すべてはひとつであり、一方から他方へと変転して終わりのない循環をくり返している。


>>>だから、闇のなかの光になりなさい。そして、闇のなかにいることを呪ってはいけない。
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by sadomago | 2006-02-24 07:06 | 神との対話
2006年 02月 22日
「神との対話」-個人的な真実について―Vol6
「神との対話」-個人的な真実について―<普及版>(1)
著者 二ール・ドナルド・ウォルシュ
訳者 吉田利子
2001年1月30日 初版発行
株式会社サンマーク出版

P62~
すべての要素が出現したので、時が生まれた。なぜなら、ものはまずここにあって、つぎにあそこにあるのであり、ここからあそこに移る時間は計測できるからだ。
見える部分がそれ自身を定義づけ、各部分が「相対的」になったように、見えない部分も定義づけられ、相対的になった。
神は、愛が存在するためには――そして純粋な愛である自分を知るためには――対象となるものが存在しなければならないことを知っていた。正反対のものが存在する必要があった。そこで、神は偉大なる極――愛の絶対的対極にあるもの、愛ではないあらゆるもの――を創りあげた。それが現在「不安」と呼ばれるものだ。不安が存在した瞬間、愛もまた、体験しうるものとして存在し始めた。
愛とその対極、この二元性が、人間のさまざまな神話で言われる悪の誕生、アダムの堕落、悪魔の反抗などである。
あなたがたは、純粋な愛を人格化して神と呼び、恐るべき不安や恐怖を人格化して悪魔と呼んだ。
地上のある者は、この出来事を中心とした神話を完成させようとして、天使軍と悪の戦士、全の力と悪の力、光と闇の戦いのシナリオをつけ加えた。
この神話は、人間が魂の深いところで気づいてはいても、頭では把握しきれなかった宇宙的な出来事を、自分たちなりに理解して語ろうとする、人類の昔の試みだった。
神は宇宙を分割することによって、見えるもの、見えないものを含めて現在存在するすべてのものを、純粋なエネルギーから創りだした。
言い換えれば、こうして物理的な宇宙が創造されただけでなく、形而上的な宇宙も作り出された。「わたしであり/わたしでない」という等式の、わたしではない部分はさらに爆発して無数のちいさい部分になった。このエネルギーのひとつひとつが、あなたがたが「霊」と呼ぶものである。
「父なる神」に多くの霊の子供が生まれると語っている神話がある。生命が自らを増殖させると言う人間の経験になぞらえることが、この壮大な出来事を理解する唯一の方法だったのだろう。「天の王国」に数え切れない霊が突然生まれたのだから。
このたとえで言えば、神話は究極の現実にそう遠くない。なぜなら、わたしという全体をかたちづくっている無数の霊は、宇宙的な意味でわたしの子供だからである。
自分自身を分割したわたしの聖なる目的は、たくさんの部分を作って自分を体験的に知ることだった。創造者が「創造者である自分」を体験する方法は、ただひとつしかない。それは創造することだ。そこで、わたしは自分の無数の部分に (霊の子供のすべてに)、全体としてのわたしがもっているのと同じ創造力を与えた。
あなたがたの宗教で、「人間は神の姿をかたどり、神に似せて造られた 」というのは、そういう意味だ。これは、一部でいわれているような物質的な身体がにているということではない (神は目的にあわせて、どんな物質的な身体にもなることができる)。そうではなくて、本質が同じだという意味だ。わたしたちは、同じものでできている。わたしたちは、「同じもの」なのだ!同じ資質、能力をもっている。その能力には、宇宙から物質的な現実を創出するちからも含まれている。
わたしがあなたがたを創造したのは、神としての自分自身を知るためだった。あなた方を通してしか、知る方法がなかったからだ。したがって、あなたがたを創った目的は、あなたがた自身がわたしであることを知らせるためだったと言ってもいい (昔から何度もそう言われてきた)。
これは驚くほど単純に見えるかもしれないが、同時に非常に複雑でもある。なぜなら、あなたがた自身がわたしであることを知る方法はただひとつしかなく、それはまず、わたしではないものとしての自分を知ることだからだ。
さあ、ここは注意してよく聞いてほしい。とくにややこしいところだから。
用意はいいかな?
はい、たぶんできたと思います。
 よろしい。説明を求めたのはあなただということを忘れないように。
あなたは何年も待っていた。あなたは、神学の教義でも科学的な理論でもなく、ごくふつうの言葉でたずねた。
そうです。たずねたのはわたしだというのはわかっています。


>>>たずねたからには、答えをうけとめなければならない。
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by sadomago | 2006-02-22 23:42 | 神との対話
2006年 02月 20日
「神との対話」-個人的な真実について―Vol5
「神との対話」-個人的な真実について―<普及版>(1)
著者 二ール・ドナルド・ウォルシュ
訳者 吉田利子
2001年1月30日 初版発行
株式会社サンマーク出版

P53~
愛に支えられた行動をとれば、自分はほんとうは何者か、何者になりえるのかとういう、栄光に包まれた経験ができるとおっしゃいました。そのことを、もう少し詳しく説明してくれますか?
 あらゆる生命の目的はひとつしかない。あなたがた、そして生きとし行けるものすべての目的は、できるかぎりの栄光を体験する、ということだ。
話したり、考えたり、行動したりするのもみな、この目的のためだ。魂がすることはほかになく、魂が望むこともほかにはない。
この目的がすばらしいところは、決しておわりがないことだ。終わりとは限界であり、神の目的にはそんな境界線はない。できるかぎりの栄光を体験できたら、その瞬間にもっと偉大な栄光を想像するだろう。栄光を体験すればするほど、もっと大きな栄光の可能性が開けるし、その可能性が開ければ、あなたはさらに栄光を体験できるようになる。
最高の秘密は、人生とは発見ではなく創造のプロセスだということだ。
あなたがたは自分を発見するのではなく、自分をあらたに創造していく。だから、自分が何者であるかを知ろうとするのは、もうやめなさい。そうではなく、何者になりたいかを考え、そうなろうと決意して努力しなさい。
人生とは学校のようなものだ、何かを学ばなくてはいけない、ここを「卒業」すれば、肉体というかせにしばられずにもっと大きな目的を追求できる、そう言ったひとがいます。この考えは正しいのですか?
それも人間の経験にもとづいた神話のひとつだ。
人生は学校ですか?
いや。
何かを学ぶために、生きているのですか?
ちがう。
それでは、何かのためにこの世に生きているのですか?
 自分が何者であるかを思い出すため、そして創りなおすためだ。
わたしは、何度もくり返して語ってきた。だが、あなたがたは信じなかった。それはそれでいい。
あなたがたが真の自分になぞらえて自分自身を創り出さなければ、真の自分にはなれないのだから。
 ちょっと待ってください。わからなくなりました。人生は学校というところまで戻りましょう。おおぜいの教師に、人生は学校だと聞かされてきました。それを否定されたのですから、正直に言うとショックです。
 学校とは、知らないことを教わりたいと思うとき、行くところだ。すでに知っていて、その知識を体験したいというときに行くところではない。
(あなたがたの言う) 人生とは、概念として知っていることを体験的に知る機会だ。何も学ぶ必要はない。すでに知っていることを思い出し、それにもとづいて行動すればいい。
よくわからないのですが。


>>>知っているだけでは、充分ではない。魂は体験したがっている。
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by sadomago | 2006-02-20 07:14 | 神との対話
2006年 02月 18日
「神との対話」-個人的な真実について―Vol4
「神との対話」-個人的な真実について―<普及版>(1)
著者 二ール・ドナルド・ウォルシュ
訳者 吉田利子
2001年1月30日 初版発行
株式会社サンマーク出版

P47~
親は、あなたをいちばん愛している。それなら、どうして偽りを教えるのだろう。
・・・・・思い出してみてほしい。親は、こしてはいけない、こうしなくてはいけないと叱りはしなかっただろうか。子供はおとなしくいう事をきいていればいい、うるさく口を出してはいけない、とは言わなかっただろうか。あなたが元気いっぱいなときに、たしなめはしなかったか。大胆な創造をめぐらしているときに、そんなことはやめなさいと言わなかったか。
その言葉を聞いて、あなたは、それが神のメッセージの基準にあわず、神のメッセージではないにもかかわらず、そうだと思った。あなたにとっては宇宙の神々とも思える人たちから送られたメッセージだったからだ。
愛は条件つきだと教えたのは親だ。あなたはそれをたびたび感じ取った。そしておとなになってから、その経験を愛する人との関係にあてはめる。
さらに、神との関係にもあてはめる。
その経験をもとに、わたしについて考え、その枠組みにとらわれている。「神は愛に満ちあふれている」とあなたは言う。「だが、神の戒律を破れば、永遠に追放され、永久に罰せられるだろう」と。
なぜって、親に突き放された経験があるから。親に罰せられた苦しみを知っているから。だから、わたしの場合も同じだとおもうのではないか。
あなたがたは、無条件に愛されるというのはどんなことかを忘れている。神の愛の体験を思い出せない。だから、世間で見出す愛を基準にして、神の愛も同じようなものだと思う。
あなたは「親」の役割を神に投影し、良いか悪いか判断して、褒美を与えたり罰したりする神を想像する。だが、それはあなた方の神話にもとづく、単純すぎる見方だ。ほんとうのわたしとは何の関係も無い。
こうして神の真実ではなく、人間的な経験をもとに、あなた方は神についての思想をこしらえた。そこから愛をめぐる現実のすべてが生まれた。それは不安の上にきずかれた現実で、復讐心をもった恐ろしい神と言う考え方に根ざしている。神が恐ろしいものだと言う考え方は間違っているが、それを否定すればあなた方の宗教は崩れる。それに代わる新しい宗教こそ新の救済なのだが、あなたがたは受け入れられない。
なぜなら、恐れる必要のない神、善悪をきめつけたり、罰を与えたりしない神は、あまりにすばらしすぎて、あなたがたが考える最も偉大な神にさえあてはまらないからだ。

>>>子供のころからずっと、劣った者が負けると言い聞かされてきたためだ。
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by sadomago | 2006-02-18 08:59 | 神との対話
2006年 02月 15日
「神との対話」-個人的な真実について―Vol3
「神との対話」-個人的な真実について―<普及版>(1)
著者 二ール・ドナルド・ウォルシュ
訳者 吉田利子
2001年1月30日 初版発行
株式会社サンマーク出版

P39~
祈りとは」、望みがかなっていることを感謝することだとしたら、神は何もしないのですか?祈りのあとで起こることはすべて、祈りの行為のおかげなのですか?
神が全能の存在で、すべての祈りを聞いて、一部には「イエス」一部には「ノー」、一部には「そのうちいつか」などと答えると思っているなら、それは間違いだ。神は恣意的な基準に従って、決定したりはしない。
神があなた方の人生すべての創造者であり、決定者であると信じているなら、それは誤解だ。
神は観察者であって、創造者ではない。神はあなた方の人生を助けるが、あなたがたが期待しているような助け方はしない。
人生の環境や条件を創造したり、しなかったりすることは、神の働きではない。神は神の姿をかたどり、神に似せてあなたがたを創造した。残りは、神が与えた力によってあなたがたが創造したのだ。神は人生というプロセスと生命そのものを創造した。だが、神はあなたがたが自由に選べる選択肢を、人生を好きなように生きる力を与えた。
その意味では、あなたがたの意志は、あなたがたに対する神の意志でもある。
あなたの生き方はあなたの生き方であって、わたしはそれを、良いだの悪いだのと判断したりしない。
そのことで、あなたは大きな幻想をいだいている。あなたの行動に、神が感心を寄せていると思っている。
あなたが何をしようが、わたしには関心がない。そう聞くとつらいかもしれない。
だが、遊びに出た子どもたちが何をするかに、あなたは興味があるだろうか。子供たちが鬼ごっこをするか、かくれんぼをするか、ままごとをするかと気にするだろうか。気にしないはずだ。なぜなら、子供たちが安全だということを知っているから。安心で楽しく遊べる環境に子供たちを置いているから。
もちろん、子供たちがけがをしないようにとは思っているだろう。もしけがをしたら、助けに行き、傷をなおしてやり、安心させてやり、幸せにしてやり、翌日はまた遊びにいけるようにしてやるだろう。それでも、子供たちが翌日、かくれんぼをしようと、ままごと遊びをしようと、どうでもいいはずだ。
もちろん、危険な遊びは教えておくだろう。だが、子供たちが危ない遊びをするのを止めることはできない。いつも、いつまでも、死ぬまで危険からまもってやることはできないのだ。
賢い親ならそれを承知している。だが、結果についての親の心配は決して消えない。この二分法――プロセスについてはあまり気にせず、結果について深く懸念するということ――これが、神の二分法に近い。
もっとも、ある意味では、神は結果についても気にはしていない。究極の結果については懸念していない。究極の結果は確実に決まっているからだ。
そこが、人間に第二の大いなる幻想だ。人生の結果が不確実だと思っている。
究極の結果が不確実だと思うから、あなたの最大の敵が生まれる。不安だ。結果に確信がもてないから、創造者を疑う。神を疑う。神を疑えば、不安と罪悪感をいだいて生きることになる。


>>>・・・・原因は最初の誤りにある
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by sadomago | 2006-02-15 07:37 | 神との対話
2006年 02月 11日
「神との対話」-個人的な真実について―Vol2
「神との対話」-個人的な真実について―<普及版>(1)
著者 二ール・ドナルド・ウォルシュ
訳者 吉田利子
2001年1月30日 初版発行
株式会社サンマーク出版

P25~
多くの人は、神が特別な方法で、特別な人にだけコミュニケートすると信じている。そのために、自分で神のメッセージを聞く責任はないと思っている。ましてメッセージを受けとる責任(これは、ただ“聞く”のとはべつのことだ)はないと考えて、いつもほかのひとの言葉ばかり聞いている。神の言葉は誰かほかのひとが聞いていると決めつけ、そのひとたちの言うことを聞いているのだ。
神の言葉を聞いたという人たちのことを聞いていれば、自分で考える必要はなくなる。
大半のひとたちがわたしのメッセージに背を向けている最大の理由は、そこにある。自分自身が神のメッセージを受けとったと認めれば、自分で考え、実行する責任が生じる。他人の解釈を受け入れているほうが(たとえその他人が2000年前の者であろうとも)、いまこの瞬間にも受けとっているかもしれない神のメッセージを解釈しようと努力するより、はるかに楽で安全だ。
だがわたしはいま、新しいかたちの神とのコミュニケーションへ、あなたを導く。双方向のコミュニケーションだ。この方法へ導いたのは、じつはあなたのほうだ。わたしがいま、こうしてあなたのもとを訪れたのは、あなたの呼び声に答えたからだ。
 一部の、たとえばキリストのようなひとたちは、どうしてほかの人たちよりもうまくあなたとコミュニケーションがとれたのでしょう?
それは、ほんとうに耳を傾けようという意志をもっているからだ。聞こうと言う意志をもち、恐ろしくても、狂気のさたに思えても、まったく間違っているように思えても、コミュニケーションに向かって心を開きつづけるからだ。
間違っているように思われても、神の言うことに耳を傾けるべきだというのですか?
 間違っていると思うときには、とくに耳を傾けるべきだ。何でも自分が正しいと思っていたら、どうして神と語る必要があるのか。
自分が知っているすべてをもとに進み、行動すればよろしい。しかし、人間は時が始まって以来、ずっとそうしてきたことを忘れるな。その結果、世界がどうなったかを見てごらん。明らかに、あなたがたには何かが欠けている。理解していないことがある。あなたがたは、自分が理解したことだけを正しいと思っている。なぜなら、あなたがたにとって「正しい」というのは、自分が同意したことをさす言葉だから。したがって、自分が理解できないことは、はじめのうちは「間違っている」と感じる。
前進するには、「わたしが『間違っている』と思ったすべてがほんとうは『正しい』としたら、どうだろう?」と自分に問うしかない。
すぐれた科学者は、そのことを良く知っている。研究がうまくいかないとき、科学者はすべての前提を捨てて、一からやり直す。
偉大な発見はすべて「正しくない」ことを恐れない意思と能力によってなしとげられた。いまここで必要なのはそれだ。
自分はもう神を知っていると思うのはやめなければ、神を知ることはできない。神の言葉はすでに聞いたと思うのをやめなければ、神の言葉は聞こえてこない。あなたがたが自分の真実を語るのをやめなければ、わたしの真実をあなたがたに語ることはできない。
でも、わたしが教えられた神についての真実は、あなたからきたものでしょう。
だれがそう言ったのか?
ほかの人たちが。
ほかの人たちとは?
指導者たち。聖職者たち。ラビたち。僧侶たち。本。それに聖書、そうだ、聖書です!
それは権威のある根拠ではない。
権威のある根拠ではないんですか?
そのとおり。
それでは何が権威のある根拠なのですか?
 自分の感情に耳をすますことだ。自分の最高の考えに耳を傾けなさい。自分の経験に耳を傾けなさい。そのどれかが、教師に教えられたことや本で読んだことと違っていたら、言葉の方を忘れなさい。言葉は真実の伝達手段として、いちばんあてにならない。
あなたに言いたいこと、たずねたいことがたくさんあります。どこから始めたらいいのかわからないくらいに。
たとえば、どうしてあなたは姿を現さないのですか。あなたがほんとうに神なら、どうしてわたしたちみんなが理解できる方法で現れてくださらないのですか。
 わたしは何度も、何度も現れている。いまもこうして現れている。
いや、そうじゃないんです。わたしが言いたいのは、疑いの余地のない現れ方、否定しようのない現れ方のことです。
たとえば?
いま、わたしの目の前にあらわれるとか。
いま、そうしているではないか。
どこに?
あなたが見るものすべてに
そうじゃないんです。わたしが言うのは、疑いの余地のない現れ方です。誰も否定できないような現れ方です。
 それでは、どんな方法ならいいというのか?どんなかたち、どんな姿で現れてもらいたいというか?
ほんとうのあなた自身のかたち、姿で。
 それは不可能だ。わたしには、あなた方が理解できるかたちも姿もない。わたしは、どんなかたちや姿になることもできるが、そうすれば誰もが、自分の見たかたちや姿が多くのなかのひとつにすぎないとは思わず、それこそが神の唯一の姿だと思いこむだろう。人は、「見えないもの」ではなく、見たものをわたしだと信じる。しかし、わたしは偉大なる「見えざるもの」であって、ある瞬間のかたちや姿ではない。ある意味では、わたしではないものもすべてわたしなのだ。わたしは「わたしではない」ところからやってきたのだし、つねにそこへ戻っていく。
ところが、わたしがあるかたちや別のかたち――ひとに理解できるかたち――をとると、ひとはそれがいつもでも変わらぬわたしだと思いこむ。
そこで、べつのひとにべつのかたちで現れると、最初の者は、二人めに現れたのは神ではないと言う。なぜなら、二人目に現れたわたしとは違う姿だし、べつのことを言うからだ。だから、神のはずがないと言う。
どのようなかたち、方法で現れるかは重要ではない。どのような方法を選び、どのようなかたちで現れようとも疑いの余地がなくなることはありえない。


>>>正しい祈りとは、求めたりすがったりすることでは決してなく、感謝である
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by sadomago | 2006-02-11 17:54 | 神との対話