カテゴリ:啓示・気付き( 9 )

2009年 04月 08日
日本人が知らない「人類支配者」の正体(3)
日本人が知らない「人類支配者」の正体(2) 続き
http://sadomago.exblog.jp/10673951/

日本人が知らない「人類支配者」の正体
2007年10月5日 1刷発行
著者 :船井幸雄・太田龍
発行所:株式会社ビジネス社

第6章 P196~
 イルミナティに操られた幕末・維新革命の真相
 明治天皇はなぜ、南朝系天皇とすり替えられたのか

明治維新を操った英国とイルミナティ P201

 ※謀略とか策略が通用しない時代が来るP207~

船井  私がフリーメーソンやイルミナティを含めてロスチャイルドやロックフェラーのことを研究しはじめたのは1980年頃からでした。いまから27、8年前になります。経営コンサルタントとしてそれらを知ることが必要だったからかなり詳しく知りました。ですから、これまでの太田さんのお話しはよくわかります。
 シークレット・ガバメント(秘密の政府)といってもよい一握りのグループが、アメリカ独立戦争、フランス革命、コミンテルン、第1次、第2次世界大戦、中国の共産政権をつくったのも、いまのアメリカを支配しているのもわかります。しかし、それらのことはそれでもよかったのではないのかというのが私の意見なのです。
 日本は多分、ロスチャイルド家の書いたシナリオ通り、幕末~明治の歴史が動かされ、明治天皇のすり替え事件というのも恐らく本当だろうと思います。いま、太田さんが言われた3人の天皇も裏切られたのかもわかりませんが、シークレット・ガバメントの戦略を知らず、明治維新が起きて、まったく維新の真実がわからないような指導者が上のほうにいて、ロスチャイルドのシナリオ通り動かされていったのでしょう。
 とくに最近、睦仁天皇が殺されて大室寅之祐が明治天皇にすり替わったという話は、いろいろな人が書いていますし、多くの証明もありますから、間違いはないと思います。しかし、それはそれで、ひとつのシナリオというか、世の中全体を統括しているより大きな存在、サムシング・グレートがつくったシナリオではないのでしょうか。良い世の中になるために、当時の日本人が決め手を思いつかなかった方向に幕末から明治へと日本が変わっていったのでしょう。ですから、こうした推移を肯定して、これから良い世の中をつくったらよいと思っています。

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by sadomago | 2009-04-08 14:19 | 啓示・気付き
2009年 04月 07日
日本人が知らない「人類支配者」の正体(2)
日本人が知らない「人類支配者」の正体(1) 続き
http://sadomago.exblog.jp/10666940/

日本人が知らない「人類支配者」の正体
2007年10月5日 1刷発行
著者 :船井幸雄・太田龍
発行所:株式会社ビジネス社

第5章
未来は決まっていない―良い未来はつくりうる 船井幸雄

 過去を正しく知ることは必要だ。ただし過去にとらわれる必要はない P176~

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by sadomago | 2009-04-07 13:47 | 啓示・気付き
2009年 04月 06日
日本人が知らない「人類支配者」の正体(1)
日本人が知らない「人類支配者」の正体
2007年10月5日 1刷発行
著者 :船井幸雄・太田龍
発行所:株式会社ビジネス社

第一章 
 「日月神示」が予言する日本の立て直し
 ※日本の立て直しを予言する『日月神示』の役割
 P43~

船井 2004年の2月の神憑(かみがかり)りがあってから私は大本数のことと、岡本天明さんに神憑った「日月神示(ひつきしんじ)」のことを勉強し始めました。そこで、わかったのは「日月神示」がたいへんすばらしい神示だということです。また「日月神示」も艮(うしとら)の金神(こんじん)さんの系統の神の神示のように思います。私は艮の金神というのは1万年より新しい神だと思うのです。日本のことについて一生懸命考えている神様のようです。最終的には日本という国を良くし、地球と人類を良くしなければならないというのが艮の金神や「日月神示」の目ざしているテーマのようです。

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by sadomago | 2009-04-06 14:22 | 啓示・気付き
2006年 02月 18日
子どもたちとの対話
子供たちとの対話――考えてごらん
第一刷 1992年6月25日
第五刷 1998年8月31日
著者 J・クリシュナムルティ
訳者 藤仲孝司
発行 株式会社平河出版社

22章 愛の単純さ

 修行者(サンニャーシ)の衣をまとった人が毎朝、樹から花を集めるために、近くの庭に来ていました。彼の手と目は貪欲に花を求め、届くところの花をすべて摘みとりました。彼は明らかにその花を、何らかの死せる像、石でできたものに備えようとしていました。花は美しく、ちょうど朝日に開こうとする優しいものであったのに、彼は穏やかに摘むのではなく、引きちぎり、あくどいことに庭からあるだけの花を奪ってしまいました。彼の神には多くの花が必要でした――死んだ石の像のために多くの生きたものたちが、です。
 他に日には、男の子たちが花を摘んでいるのを眺めました。彼らは花を神様に供えようとしていたのではありません。彼らは話をしながら、思慮もなく花を引きちぎり、放っていました。君たちは、自分がこんなことをしているのを観察したことがありますか。なぜそんなことをするのかなと思います。歩きながら小枝を折ったり、葉をむしりとって、それを捨てるのです。自分のこの心ない行為に気づいたことはないですか。大人たちもまたそうします。大人たちは彼らの内なる残忍さ、生き物に対するこの驚くような不敬の、彼らなりの表現方法を持っています。大人たちは害を加えぬことについて語るのですが、それでもやることなすことが破壊的なのです。
 髪に挿したり、愛を込めて誰かに贈るために一輪、二輪の花を摘むことは理解できるのです。しかし、なぜ花をただひきちぎるのでしょう。大人たちは野心で醜く、戦争で互いに殺し合い、お金で互いに腐敗させ合っています。大人たちなりのおぞましい行動をしているのです。そして、見たところ、ここでもどこでも若い人たちは彼らの後に続こうとしています。
 先日、一人の男の子と外を歩いていて、道に石が落ちているのに出くわしました。私がそれをどけたとき、彼は「なぜそうしたのですか」と問いました。これは何を示唆しているのでしょう。それは思いやりや尊敬の欠如ではないですか。君たちは、恐怖から尊敬を示すのでしょう。目上の人が部屋に入ってくるときには即座に跳び上がります。しかし、それでは尊敬ではなく、恐怖です。なぜなら、もしも本当に尊敬を感じたならば、花をだめにはしないでしょうし、道の石をどけるでしょう。樹を育て、庭の手入れを手伝うでしょう。しかし、私たちは老いても若くても、本当の思いやりの感情をもちません。なぜでしょう。それは、愛とは何かを知らないということなのでしょうか。
 単純な愛とは何か、理解できるでしょうか。性愛の複雑さでもなく、神の愛でもなく、ただの愛、すべてのものへの接し方全体が優しくて、本当に穏やかなことなのです。家庭ではこの単純な愛は、いつもは得られません。親は忙しすぎるのです。家庭には本当の愛情や優しさはないかもしれません。それで、君たちは鈍感さというその背景をもってここに来て、他のみんなのように行動します。それで、どのように感受性をもたらせばよいのでしょうか。花を摘まないように規則を持たなくてはならない、ということではありません。というのは、単に規則で抑制しているだけのとき、そこには恐怖があるからです。しかし、どのようにしてこの感受性は生じてきて、君たちを鋭敏にし、人々や生き物や花を害さないようにするのでしょう。
 君たちはこのようなことに興味がありますか。あるべきでしょう。敏感であることに興味がないのなら、死んだほうがましでしょう――そして、ほとんどの人々がそうなっているのです。一日に三度食べ、仕事を持ち、子供をもうけ、車を走らせ、良い服を着ていても、ほとんどの人々は死んでいるようなものなのです。
 敏感でいるとはどういうことか、知っていますか。確かにそれは、物事に対して優しい感情を持つということです。動物が苦しんでいるのを見て、何とかしたり、大勢の人が素足で歩くから道の石をどけたり、誰かの車がパンクするかもしれないから道の釘を拾うのです。敏感であるとは人々や鳥や花や樹を思いやることです――それらが自分のものだからというのではなくて、だた物事のとてつもない美しさに目覚めているからです。そして、どのようにしてこの感受性はもたらされるのでしょう。
 君は深く敏感であるととたんに、自然に花を摘みません。物を壊したり、人々を傷つけたりしたくないという自然な願望があるし、それが本当の尊敬、愛を持つということです。愛することは人生で最も重要なことなのです。しかし、愛とはどういうことでしょう。その人物がお礼に愛してくれるから愛するとき、確かにそれは愛ではありません。愛するとは、何の報い求めずに、とてつもない愛情をもっていることです。君たちはとても賢いかもしれません。試験は全部受かって、博士号を取り、高い地位に昇進するかもしれません。しかし、この感受性、この単純な愛情を持っていなければ、心は空しいでしょうし、君は一生惨めでしょう。
 それで、心がこの愛の感覚に満たされることはとても重要です。というのは、そのとき君たちは破壊しないし、非情ではないし、もはや戦争はないからです。そのとき君たちは幸せな人間でしょう。そして、幸せだから折らないし、神を求めもしないでしょう。というのは、幸せ自体が神であるからです。
 そこで、どのようにしてこの愛は生じてくるのでしょう。確かに愛は教師、先生から始まらなくてはなりません。先生が君たちに数学や地理や歴史の情報を与えるほかに、心にこの愛情を持ち、それについて話をしてくれるなら――自然に道の石をどけ、汚い仕事を全部は召使にさせず、会話や仕事や遊びや食事のとき、君たちといっしょにいたり自分一人でいるときに、このふしぎなものを感じて、それをしばしば示してくれるなら、そのとき君もまた、愛するとはどんなことかを知るでしょう。
 君はきれいな肌やすてきな顔を持っているかもしれません。美しいサリーを着ていたり、偉大なスポーツマンだったりするかもしれません。しかし、心に愛がなければ醜い人間であり、それも度を越して醜いのです。そして、愛しているとき、君の顔は地味でも美しくても、輝きを持っています。愛することは人生で最も偉大なことなのです。そして、愛について話をし、愛を感じて、これを養い、宝とすることはとても重要です。そうでなければ、愛はすぐに消失してしまうでしょう。というのは、世間はとても残忍だからです。若いうちに愛を感じず、人々や動物や花を愛をもって見なければ、君たちは大きくなって、人生が空しいことに気づくでしょう。君はとてもさびしくなり、恐怖の暗い影がいつまでもついてくるでしょう。しかし、心にこの愛というとてつもないものを持ち、その深み、歓喜、忘我を感じたとたんに、君にとって世界が変容したことを発見するでしょう。
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by sadomago | 2006-02-18 22:46 | 啓示・気付き
2005年 12月 24日
「サンタクロースっているんでしょうか?」
「サンタクロースっているんでしょうか?」
1977年12月初版  1刷
1985年12月初版 41刷
1986年10月改訂版 1刷
2004年10月改訂版95刷
訳者 中村妙子/画家 東逸子
発行所:偕成社


あとがき
 「サンタクロースって、いるんでしょうか?」
 これは、今からほぼ百年も前に、アメリカの『ニューヨーク・サン』新聞にのった社説です。いまでは古典のようになって、クリスマスの時期が近づくと、アメリカのあちこちの新聞や雑誌にくり返し掲載されるということです。
 これを書いたのは、フランシス=P=チャーチ(1839~1906年)という同社の記者でした。この人について、当時の編集長は、回想録に、「人間生活のあらゆる面について、ふかい洞察力とするどい感受性をそなえた人物だった。」と書いています。まやかしや不正をどこまでも追求する記者魂とともに、ゆたかな想像力と暖かい同情心をそなえていたようです。
 ある日編集長はチャーチに、幼い筆跡で書かれた一通の手紙をわたして、この子への返事を社説に書いてみないかといいました。8歳の子供への手紙を社説に? チャーチは、はじめぶつぶついいましたが、やがて机に向かって書き上げたのが、これだったのです。
 バージニアのお父さんは、警察関係のコンサルタントもつとめる外科医でした。たぶん小さな娘の率直な質問にたじたじとして、「サン新聞にきいてごらん。」といったんでしょうね。
 成長したバージニアは教職につき、引退する前の三年間は、ブルックリンの公立学校の副校長をつとめました。この学校は、長期にわたって入院生活を送っている子供たちのための学校でした。
 バージニアが1971年に81歳で亡くなったとき、『ニューヨーク・タイムズ』は「サンタの友だちバージニア」という見出しで彼女に一文を捧げ、「アメリカのジャーナリズムにおいて、もっとも有名な社説が書かれるきっかけとなった、かつての少女」と記してその死をいたんでいます。
 21世紀の今日、物質文明が目覚しい発展をとげているいっぽう、東西南北どこの国、それぞれむずかしい問題をかかえているいま、日本の子どもたちに、またバージニアと同じに かつては確かに子どもであったおとなの方がたに、装いをあらためたこの本をお届けしたいと思います。:中村 妙子
1897年9月21日 ニューヨーク・サン新聞「社説」
 
 ニューヨーク・サン新聞に、このたび、つぎのような手紙がとどきました。さっそく社説でとりあげて、おへんじしたいとおもいます。
 この手紙をさしだした人が、こんなに大切なしつもんをするほど、わたしたちを信頼してくださったことを、記者いちどう、たいへんうれしくおもっております。
きしゃさま
 あたしは、8つです。
 あたしの友だちに、「サンタクロースなんていないんだ。」っていっている子がいます。
 パパにきいてみたら、
「サンしんぶんに、といあわせてごらん。しんぶんしゃで、サンタクロースがいるというなら、そりゃもう、たしかにいるんだろうよ。」と、いいました。
 ですから、おねがいです。おしえてください。サンタクロースって、ほんとうにいるんでしょうか?

バージニア=オハロン
ニューヨーク市 西95丁目115番地



バージニア、おこたえします。
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by sadomago | 2005-12-24 23:59 | 啓示・気付き
2005年 12月 23日
ウランの神に祈る
明窓出版
http://meisou.com/
http://meisou.com/books_data/00019/00019.htm
宇宙心 立ち読みOKページ
鈴木美保子 著
明窓出版

<前略>
 旅は「特急やくも」で島根の出雲大社へと続きます。ここには厳かな古代の神様がいらっしゃいました。ちょうど運良くお神楽の舞を見ることができて、神代の時代に戻ったかのような気分になりました。大社から歩いて日本海に沈む日の入りを見に行きました。ちょうど村の猟師たちのお祭りで、神主たちが祝詞を唱え、大漁祈願でしょうか、笛や太鼓が夕闇に鳴り響き、猟師たちが神主さんから杯を受けていました。
 夜、宿の女将さんに美保神社への行き方を尋ね、翌朝、教えてもらった通りに何とか列車と渡り船を乗り継いで島根半島の先まで行ってみようと思っていました。美保神社だなんて、何だか自分の名前と縁がありそうな気がしてS先生にお聞きすると、「あんたは行かなくちゃならん」と助言していただいていたからです。そうしたら夜分、部屋をノックする人がいます。さっきの女将さんです。「美保神社に行きたい人がいるって話をしてたら、階下のYさんが、ちょうど隠岐の島に行くから車で乗せて行ってあげるって言ってるけど……」とのことです。「渡りに舟」とはまさにこのことです。
 翌朝、この親切なYさんは、私を美保神社の真ん前まで連れて行ってくれたのでした。おかげで汽車と舟の旅の数時間をセーブすることができました。そこには人っ子一人おらず、私は神様とのゆっくりした、とてもいい時間を過ごすことができ、いろいろな個人的メッセージもいただきました。ここ美保関町には九二年に宇宙から隕石が人家に落ちた場所でもあります。
 それから福岡では、友人が宗像神社へ連れて行ってくれました。清清しい大きな社が印象的でした。これほど集中して神社やお寺を回ったことはこれまで一度もありませんでした。それぞれの神々様の手応えのようなものをインスピレーションで感じさせていただきました。足固めをするとは、こうして自分で足を使って回ることなのかと思い、S先生の偉大さがいっそう身に沁みて感じられたのでした。

<中略>

予言の岩の前での儀式のときのことです。雲ひとつない抜けるような、紺碧の空をバックに、巨石の前でSさんが、両手を大きく広げて祓い清めの祝詞を唱えました。

「祓い給えよ、清め給え
 磨き給えよ、光らせ給え
「神と共に、神と共に、
 光と共に、光と共に、
 自然と共に、自然と共に…………」

「世界が平和でありますように
 万類が安泰でありますように
 地球が安泰でありますように
 人と自然が和合をとり
 人々が直く清く正しき真心を持ちますように
 地球よ、永遠であれ
 自然よ、永遠であれ
 宇宙よ、永遠であれ、
 神々様よ、とこしえに、とこしえに永遠であれ…………」

 美しい旋律がホピの聖地に響き渡ります。そして先住民の神に、ホピの神に、この土地の神に、そしてウランの神にまで、たたみかけるような、語りかけるような祝詞がSさんの口から出てきます。地球が、人類がここまできてしまったことへの謝罪、先住民たちの迫害された長い歴史へのねぎらい、毎回同じお経とは違って、Sさんの祈りは同じものは二つとてありません。祈りの作法みたいな形はなく、ただ心の底から胸に湧いてくる思いを切々と祈られるのです。悪の根源みたいなイメージになってしまっているウランにすら、Sさんは謝罪しました。悪い汚名を着せてしまって申し訳ありません、悪いのはウランではなく、それを悪の方向に使った人間の心なのです、と。

More>>>私はウランに謝る人を初めて見ました。
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by sadomago | 2005-12-23 10:23 | 啓示・気付き
2005年 12月 04日
すべての答えはすでに自分のなかにある
カフェレストラン モーツァルト
http://www.nisekostdesign.com/mozart/

monologe
私の想いなどを綴っています。こちらも是非ご覧ください。akiko
http://www.nisekostdesign.com/mozart/mypoem.htm

読んだ本の紹介です。

 セスは語る(Seth Speaks)
  ジェーン・ロバーツ、ロバート・F・バッツ
            =ナチュラルスピリット社=

 自分に正直になり、自身を意識的に自覚できるようになるまでは、素直に他者と関わることはできません。さもなければ、他者に自分の恐れや偏見を投影してしまうことになるでしょう。 自分自身が膨大な不安材料を抱えていながら、他者を助けることはできません。 みずからの思考を変える必要があります。 日常生活の一瞬一瞬において、自分に対して言っていることが、真実だと意識できているようにならねばなりません。 それがあなたが外に向けて投影している現実にほかならないからです。
              
 自分自身の状況を変える力は、ほかでもないあなた自身にあるのです。 深く内面を見ていき、直感に心を開き、そして、もっとも肝心なことは、そうした『叡智を受けとりたいと望む』姿勢が必要なのです。 己を吟味せずして現実を吟味することはできないのです。 『真実』とはあなたのことに他ならないのです。 それならば、真実である『あなた自身』を発見してください。 内面を見つめる能力、意識を深く集中させる能力、なおかつ、学ぶことへの熱心な願望が、内なる自信と結びつき『すべての答えはすでに自分のなかにある』ということを理解するのです。
              
一人一人の人間が、直感を通して、より深い知識に至る術を持ち、内なる現実をかいま見る能力をもっているのです。
              
---宇宙が私達に伝えたいのは、まさにこのことなのです---
(以上本文より抜粋)

(2005.5.23)


 あなたはご自分の感情に耳を傾けていますか? 感情は魂の言葉です。 自分がどう感じているのかを さぐることは重要です。 自分の外側にではなく、内側に目を 向けて内面深くさぐっていくと必ず今、自分がどう感じているのか、 自分にとっての真実とは何か、に行き着きます。 感情をどう 扱うかを学んでいないため、厄介もの扱いしていますが、 あなたのもっとも深い感情の中に最も高い真実が隠されています。
  
 感情は否定的でも破壊的でもなく、シンプルなあなたの真実です。 私達が教えられてきた「感情をかくす」ことは意識して人生を選ぶことができず、無意識に物事を選択していることと繋がります。
 
 自分が感じていることに敏感になることです。そうすれば、責任のある選択ができます。 やがて、あなたを、可能な最高の生き方ができるように、宇宙が導こうとしていることに 気づきはじめるでしょう。
     
 魂はあなたの感情に語りかけます。だから、自分の感情に耳を すまし、従い、大切にすることです。 そうすれば、自分にとって何が「最善」かもわかります。 あなたにとっての最善とは、あなたにとっての真実です。

     参考 GARY ZUKAV [SOUL STORIES]

NEALE DONALD WALSCH [CONVERSATIONS WITH GOD]

(2005.5.8)
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by sadomago | 2005-12-04 15:43 | 啓示・気付き
2005年 11月 05日
結果よりもプロセスが重要
「運命の法則」幸運の女神とつきあうための15章
天外伺朗 (Tenge Shiro)

2004年 11月25日 第一刷発行
2005年  2月19日 第六刷発行
株式会社 飛鳥新社

結果よりもプロセスが重要

 ソニーのトリニトロンといえば、映像の美しさで定評があり、かつては何十年のもわたってテレビの王様として君臨してきた。
 もうずいぶん昔の話だが、ソニーはカラーテレビへの参入が遅れ、しかも最初に採用した技術に欠陥が多く、倒産の危機に見舞われたことがある。その難局をやっとの思いで乗り越えて、トリニトロンが完成した。
 そのとき、当時の社長だった井深大氏がしみじみとつぶやくのを偶然聞いた。
「ああ、やっぱりビジコンをやっていてよかったな・・・・」
この何気ないひとことは、なぜか私の耳にこびりついていたが、その深い意味に気付いたのは、それから20年もたってからだった。

 ビジコンというのは、テレビカメラの心臓部である撮像管のことだ(今日のCCDやCMOSなどの固体映像素子が発明される以前の話)。ソニーでは、その数年前まで必死に開発に取り組んでいたが、大失敗に終っていた。
 じつは、その当時のソニーには、撮像管や受像管の技術に詳しいエンジニアはおらず、手探り状態で始めたのだが、何年たっても、まともな撮像管は作れなかったのだ。
 「あれはビジコンではなくて、デテコン(出てこん)だ!」
 と大っぴらに悪口をたたかれていた。
 よりによって、その大失敗をしたプロジェクトを、井深さんはしみじみと評価したのだ。
 つまり、そのプロジェクトで人が育ち、技術やノウハウが蓄積され、それがトリニトロンの成功につながった、ということだろう。
 そのことに気付いてから、社内のプロジェクトを見る私の目は変わった。よくよく観察すると、ひとつのプロジェクトの成功の背後には、それを支えたおびただしい数のプロジェクトがあること。そして、そのほとんどは日の目を見ていない、ということがわかった。つまり、通常、陰で支えたこれらのプロジェクトは、誰にも認知されないのだ。
 ロケットにたとえれば、三段目のロケットが人口衛星の周回軌道にのるためには、むなしく燃え尽きていった一段目、二段目のブースターロケットの働きが、どうしても必要だったのだ。
 ただ、失敗したすべてのプロジェクトが、ブースターロケットになるわけではない。プロセスが問題なのだ。プロセスが良ければ、いくつかの捨て石をへて、何段目かで周回軌道に乗れる。プロセスが悪いと、次へはつながらない。これは個人の人生でも同じだ。結果よりプロセスが重要なのだ。プロセスの良し悪しの判断基準のひとつは「フロー」に入っているかどうかだ。
 またこれは、プロジェクトの評価だけでなく、人の評価にもあてはまる。
 ひとり一人の成功は、きわめて大勢の人の努力に支えられている。彼らの貢献は、よほど注意してみないと、気付くことはできない。仕事に直接関係していない人間が、じつは深層心理的には皆のマインドを支えていた、ということも十分あり得る。

破滅に向かうコンサルタント
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by sadomago | 2005-11-05 22:49 | 啓示・気付き
2005年 11月 02日
「フラニーとゾーイ」  サリンジャー
・・・・君が理解してもいないイエスに向かって、どうして祈ることが出きるのか、僕にはわからないんだよ--神に誓って、分からんな。しかし、本当に許しがたいと思うのはだね、君もぼくと同じくらいの分量の宗教哲学を漏斗で注ぎ込むようにして食わされてきた身であってみれば--本当に許しがたく思うのは、君がイエスを理解しようとしない点だよ。
 もしきみが、あの巡礼のような、非常に素朴な人間であるか、あるいはまったくすてばちな人間であるのなら、あるいは弁明の余地があるかも知れない--しかしきみは素朴な人間じゃない。 それにそんなすてばちな人間でもない」・・・・・「お願いだから、フラニー」と、彼は言った「もしも『イエスの祈り』を唱えるのなら、それは少なくともイエスに向かって唱えることだ。聖サンフランシスコとシーモアとハイジのじいさんを、みんなひとまとめにまるめたものに向かって唱えたってだめだ。唱えるなら、イエスを念頭に置いて唱えるんだ。イエスだけを、ありのままのイエスを、きみがこうあってほしかったと思うイエスではなくだ。 
 きみは事実にまっこうから立ち向かうということをしない。最初にきみを心の混乱に陥れたものはやはり、事実にまっこうから立ち向かわないという、この態度だったんだ。そんな態度では、そこから抜け出すこともおそらくできない相談だぜ」・・・・・・
 
・・・・いいかい!彼は、ただバイブルの中で一番聡明な人間というだけだよ、それだけだよ!誰と比べたって、彼は一頭地を抜いているじゃないか。そうだろう?旧約にも新約にも、学者や、預言者や、使徒たちや、秘蔵息子や、ソロモンや、イザヤや、ダビデや、パウロなど、いっぱいいるけれど、事の本質を本当に知っているのは、イエスのほかに一体だれがいる?誰もいやしない。
 モーゼもだめだ。モーセなどと言わないでくれよ。彼はいい人だし、自分の神と美しい接触を保たなければならなかった。しかし、イエスは神と離れていないということを合点してたんだよ」
・・・・神の国はわれわれと共にある、われわれの中にある。ただわれわれがあまりにも愚かでセンチメンタルで想像力に欠けるものだから見えないだけだということを、聖書の中の人物でイエス以外に知っていたものがあっただろうか?それをちゃんと知ってた者がさ。そういうことを知るには神の子でなければいけないんだよ。どうしてきみにはこういうことが思いつかないのかな?
 僕は本気で言ってんだぜ、フラニー、僕は真剣なんだ。きみの目にはイエスのありのままの姿がその通りにみえていなければだね、きみは『イエスの祈り』の勘所をそっくり掴みそこなうことになるんだぜ。
 もしイエスを理解していなかったら、神の祈りを理解することもできないだろう--きみの獲得するものは祈りでもなんでもない、組織的に並べられたしかつめらしい言葉の羅列にすぎないよ。イエスはすごく重大な使命を帯びた最高の達人だったんだ。
 これは聖サンフランシスコなんかと違って、いくつかの歌をものにしたり、鳥に向かって説教したり、そのほか、フラニー・グラースの胸にぴったり来るようなかわいらしいことは何ひとつやってやる暇がなかったんだよ。
 ・・・『イエスの祈り』の目的はひとつあって、ただ一つに限るんだ。それを唱える人にキリスト意識をあたえることさ。きみを両腕に掻き抱いて、きみの義務をすべて解除し、きみの薄汚い憂鬱病とタッパー教授をおいだして二度と戻って来なくしてくれるような、べとついた、ほれぼれする、神々しい人物と密会する、居心地のよい、いかにも清浄めかした場所を設定するためじゃないんだ。
 きみにもしそれを見る明があるなら--『ならば』じゃない、きみにはあるんだ--しかもそれを見ることを拒むとすれば、これはきみがその祈りの使い方を誤ってることになる。お人形と聖者がいっぱいいて、タッパー教授が一人もいない世界、それを求めるために祈ってることになってしまうじゃないか」

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by sadomago | 2005-11-02 22:57 | 啓示・気付き