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2005年 08月 13日
ニコラ・テスラ 稲妻博士と呼ばれた男
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【Pravda】多くの人は彼を歴史上に数多い発明者の一人としてしか知らないだろう。確かに彼は、交流電源、蛍光灯、熱伝導、リモートコントロールの原理、太陽発電、他たくさんの発明を残している。そして現在の電化製品の多くはその発明と発見なしには存在し得なかったと言われているのである。彼の実験は10mの塔のてっぺんに巨大な銅の半球を取り付けて稲妻と火花を発生させる、非常に危険なものだった。巨大な稲妻の雷鳴は15マイル先まで轟き、人々は路上に立って足に衝撃を感じながらその稲妻を眺め、馬は蹄からその電気を感じとるほどであったという。しかし、その変わりものの科学者は決して人々を恐怖させたかった訳ではない。その放電実験は実に25マイル先まで、200に及ぶ電球を「電線なしで」点灯させるとに成功したのだった。そして人々はその男を狂気の科学者として恐れ、友人のマーク・トウェインは彼のことをして稲妻博士と呼んだ。男の名はニコラ・テスラ。それはエジソンをも凌ぐ悲運の天才の名である。




テスラは常に研究に没頭し、一日にたった4時間の睡眠しかとらなかった。しかし、彼はまた電気工学だけでなく、8か国語に堪能な詩をたしなむ言語学者であり、音楽と哲学にも精通していたのだ。

ニコラ・テスラは1856年7月10日、セルビアの正統の聖職者の家族の中の第4子としてクロアチアで生まれる。彼は5歳のときから異常な恐怖症と固定観念に苦しんでいたという。頭の中は空想的なビジョンで満たされ、夜は本ばかり読みふけり、しばしそのまま夢中状態に陥ってはひどく疲労していたという。

1880年、プラハ大学で学ぶニコラ・テスラは交流電磁誘導のアイデアを閃いた。彼は自分の教授にそのアイデアを持ちかけ、賛同を得ると、1882 年にはそのプロトタイプを完成させることに成功したのである。交流電気のアイデアを世界に知らしめるための唯一の方法はその事を当時発明王として成功を手にしていたトーマス・エジソンと議論する事に他ならないと考えたテスラは、1884年、全ての私財を売り払って大西洋を渡るニューヨーク行きの船に乗った。

エジソンはテスラの4つ年上で、電球、蓄音機などの発明で既に著名な存在であり、発電機の発明で億万長者となっていたが、それらの電化製品は全て直流電源によるものだったのだ。そして、エジソンは直感的にテスラをライバルだと感じていたという。エジソンはテスラに会社の仕事を提供し、エジソンの元で働きながらも、彼は交流電源の開発を止めなかった。そして、テスラの努力が実り、彼の新発明は1887年10月、特許として受諾されたのである。

しかし、それが二人の天才の"冷戦"の始まりだった。

エジソンはテスラの交流電源を試すために、会社の新システムのうち1つでもテスラの交流電源で動かすことが出来たならばテスラに$50000払うと約束した。テスラを認めたくないエジソンは、もちろんそんなことは不可能であると信じていたからである。

一方、テスラはそれに応えて交流電源でシステム制御する24種類の機器を用意し、見事にそれを達成したのである。それはエジソンにとって強烈な体験だったに違いない。実際に交流電源でシステムが稼動した事実はもとより、直流電源と比べた際のその経済的な節約効果は予想を遙かに凌ぐものだったからである。そして、エジソンはその得体の知れないクロアチアの科学者テスラに、全てこの話は冗談、として報酬を払うことを拒絶したのだ。テスラは怒り、やがて二人の天才は激しく口論したが、結局テスラは間もなく職と家を失うことになったという。

再起を図ったテスラは、1887年4月、Tesla Electric Light Companyなる研究所を設立し、1888年5月16日、アメリカ電子工学学会で発明に関するレポートとデモンストレーションを行う。丁度そこに居合わせた億万長者ジョージ・ウェスティンハウス - 機関車の空圧ブレーキの発明者 - はテスラのスピーチに大きな感銘を受け、すぐさまテスラに百万ドルの研究費と特許の使用料を提供したのである。

ウェスティングハウスエレクトリック社はナイアガラの滝での水力発電にテスラのシステムを実際に採用した。そしてその成功でテスラは経済的に安定し、再び研究に没頭したのである。

1888 年には循環する磁界を発見し、高・超高周波の発生器を開発し、1891年には100万ボルトまで出力できる高圧変圧器を発明。そしてその後、テスラは彼のシンボルとも言える、かの有名な空中の放電実験に着手するのである。そして実験を続けるある日、テスラの研究に目をつけた当時アメリカでも指折りの資産家で銀行経営者のジョン・P・モーガンが、無線放送の電波塔の設営の話をテスラに依頼、テスラは再びNYに渡ることになる。モーガンは$150000(現在での数千万ドル)の資金と200エーカーに及ぶロングアイランドでの土地を用意した。鉄塔は57m、頭頂部には55t,直径20mの金属のドームが取り付けられたという。そしてこの巨大な塔は1905年に竣工し、当時としては驚くべき成果を発揮したという。当時の新聞はこう伝えている。「ニコラ・テスラが千マイル先の空を光らせた」と。プロジェクトは大成功を収めたのである。

しかし、1900年マルコーニが大西洋を横断してラジオを放送すると、テスラの無線システムはやや過去のものとなる。確かに、1893年、テスラは世界初の無線トランスミッターを開発している(1943年、米国最高裁判所により確認されている)。しかし、テスラは既にそうした凡庸な無線コミュニケーションシステムに興味を失っていたのである。テスラは惑星の一部に特定の力を送信するための研究に興味を抱いていたのだ。あくまでも「実用的な」金になるコミュニケーションシステムを欲していたモーガンはテスラとの協力関係を打ち切り、テスラの不気味な発言(私は宇宙人とコンタクトしている、と話したという)に気味の悪さを覚え、研究資金の提供も停止したのである。

ニコラ・テスラは確かに不思議な人間だった。彼は細菌を異常に怖がり、常に石けんで手を洗い、毎日18枚以上のタオルをホテルに要求した。もし夕食時、蚊が皿の上を飛んでいようものならすぐに新品と交換させたという。ホテルに止まるときは必ず3で割り切れる部屋番号の部屋を要求するような変人だったのだ。しかし、テスラのそうした病的な恐怖症と固定観念は彼の驚異のエネルギーと直結していたのだろうか。散歩しながら突然宙返りをしたり、公園を歩きながらファウストを暗唱したりしている時、彼は素晴らしいアイデアを思いついたのだという。

また、一方で彼は説明しがたい予知能力の持ち主でもあった。一度は友人らの命を救ったこともある。ある時テスラは電車に乗っていた友人に突然その電車を降るように言ったという。すると、その電車はその後脱線事故を起こし、多数の死者と重傷者を出したのである。

また、テスラはかつて「私は地球を分断することが出来る」と話したこともある。テスラは恐ろしいエネルギーを生み出す共振装置を開発していたという。もちろん、彼の目的は地球破壊などではなかたったものの、その恐るべき力は事実だったのである。そして、彼がそうした装置のせいでマッド・サイエンティストとして世間に悪い評判を残したことは否定できない。彼は穏和で平和を愛する男である一方、また、敵も多かったのだろう。

1930年、テスラはRCA corporationで国防に関わる機密品の開発に携わっていた。それらの計画は力の無線送受信、共振装置の開発を含み、時間の制御すら試みていたと言われている。しかし現在、それらは多くの部分で謎に包まれており、資料は失われたため、どこまで真実で、どこまでが作り話なのかを知る事は出来ない。

またその年、テスラは彼とエジソンに与えられたノーベル賞を拒否した。彼は死ぬまでエジソンという男を軽蔑し、臆病者として彼を許す事はなかったのだ。しかし、ノーベル賞という名声を拒否してからのテスラは絶望的だった事もまた事実である。もし彼にそうした名声があれば、彼は多くのスポンサーに恵まれ、安定した研究費を得る事が出来ただろう。彼が世界の名誉を拒否してまで受けたその損害は計り知れないものだったのである。

そして1943年、テスラは研究室の中で貧困と失意のうちにこの世を去るのである。彼は、研究と巨大な電波放送塔設営の為に、稼いだ巨額の富の全てを使い果たしていたのだ。またテスラの膨大な日記と論考は既に永久に失われてしまっている。それらは第二次世界大戦開始間もなく、それらの論考が人類にとって危険すぎるという判断から、テスラ自信の手によって焼かれたといわれているのである。狂気の天才が夢見た装置とは一体なんだったのか今の我々に知るすべはない。

そして現在、物理の教科書ではニコラ・テスラについてはただ変圧器の発明者としか触れられていないのである。たった一人で100年後の世界を歩いていた、その科学者の夢、そして孤独を、我々は永久に知る事は出来ないだろう。

by sadomago | 2005-08-13 22:55 | 機械と人間


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