2009年 04月 10日
日本語はなぜ美しいのか(2)
日本語はなぜ美しいのか(1) から 続き
http://sadomago.exblog.jp/10687306/

日本語はなぜ美しいのか
集英社新書0374E
2007年1月22日 第1刷発行
2007年6月19日 第5刷発行
著者:黒川伊保子(くろかわいほこ)
発行所:株式会社集英社

対話の目的が違う! P168~

 さて、母音語族の日本語、子音語族の世界各国語。この違いに気づいたとき、私はぞっとしてしまった。
 なぜなら、「嬉しかった、ありがとう」の溶け合うような親密感に比ベて、「光栄でした、感謝します」の冷ややかなこと……この違いが、言語全体に流れているということだからだ。
 すなわち、潜在意識で母音骨格をつかむ私たち日本人は、話しているうちに、意識レベルで相手と融合してしまう。意味的な合意を得られなくても、一定時間話し合えば、なんとなくわかり合えた気になる。日本語はそういう特性の言語なのである。「話せばわかる」とはいかにも日本人らしい名言だと思う。
 おそらく、子音語族の使い手からしたら、曖昧(あいまい)で何を言っているかわからない会話に見えるだろう。しかし、意識レベルで他者と融合するのは、素晴らしい政治力だと私は思う。なぜなら、日本人にその癖がなかったら、祖国の美しい街々に原爆のような残酷な爪痕を残した国と、あんなにすぐにニコニコ笑って付き合えただろうか。意味論的には「?」でも、結果、柔軟でタフな国民性である。



 一方、相手の音声の中から、機械音に近い、威嚇(いかく)効果のある子音だけをつかみとる人たちは、話しているうちに、相手との境界線がしっかり見えてくる。この境界線を越えるための権利と義務について話し合わなければ……彼らの潜在意識は、そんな風に感じているはすだ。
 境界線を越えるため、子音語族の恋人たちは、「愛している」ということばを約束事のように交換し合う必要がある。
 境界線が融和してしまう母音語族の恋人たちは、打ち解けた恋人を褒めることはしない。自分の身体の一部を、今さら褒める必要がないように。つまり、母音語の使い手たちは、自我の内側に、恋人を招き入れるのである。
 だから、私は、馴染んだ女を褒めない日本人の男が好きである。どっぷり一緒に生きている感があるからだ。おそらく、母音語を使う女たちは、子音語を使う女たちより一段と幸せだと思う。違うかしら?

 というわけで、母音語の使い手による対話と、子音語の使い手による対話は、潜在的な意味において、まったく異なる行為なのである。
 前者は、融和するための手段としてことばを使う。仲良くなる方法を探るのが、対話の目的なのだ。話せば話すほど、意識は融和していくので、意味的な合意はさほど重要ではない。心安らかな語感のことば(親密な大和言葉)をどれだけたくさん交わしたかに、感性上の意味がある。
 後者は、境界線を決める手段としてことばを使う。境界線のせめぎ合いが、対話の目的なのだ。話せば話すほど意識は対峙するので、意味的な合意と、権利と義務の提示、絶え間ない好意の表明が必要不可欠となる。
 この違いに気をつけないと、日本人は外交に失敗する。私自身は、日本人の対話のほうが感性レベルは上だと思うのだが、なにせ世界の少数派である。民主主義の世の中では、少数派は悪にされてしまう。気をつけましょう。

母音語と民主主義

 先に述ベたとおり、母音語の使い手は、話し合っているうちに意識が融和してしまう。このため、合意はうやむやにして、境界線を譲り合うのが、実のところ、組織の美しいあリ方である。

 なぜなら、母音語人に合議制を強要すると、妄信的でヒステリックな集団になってしまうことがあるからだ。
 意識が融和して、話し合っている他者を自我の一部に取り込んでしまうために、「この人は自分とは違う」ということを、どうにも認められなくなってくるのである。このため、大勢ができ上がって、強い連帯感が形成されると、大勢に合意できない者を激しく排除してしまうことがある。民主主義の基本精神とはほど違い、思想統制が勝手に働いてしまう国なのだ。
 合議制は、「他者は自分とは違う」と、目に見えて、そして身に染みて感じているアメリカのような国にこそふさわしい制度なのだと思う。
 とはいえ、日本では、事実上多くの組織が、合議制のようなふりをしながら、陰では派閥の会合で境界線を探り合っている。功罪ともにあるが、まあ、いい落としどころなのじゃないだろうか。
 しかしながら、この国では、組織の少数派が、常に理不尽な吊るし上げや、激しい排除にさらされる危険性がある。男会社のシャープなキャリアウーマンや、進学校の夢見がちな少年、帰国子女、大阪のヤクルトファン、武士道精神に感激しないスポーツマン……誰かを激しく攻撃したくなったときには、一回だけ踏みとどまってみたほうがいいと思う。私たちは融和癖があり、この融和癖のせいで、思いもよらぬいじわるな思想統制を強いてしまうことがあるからだ。優しさが高じて残酷になるというのは、なんとも残念なことである。

自然と対話する母音語人、自然と対峙する子音語人

 母音語の使い手は、自然とも融和する。
 母音を言語脳で聴き取り、身体感覚に結びつけている日本人は、母音と音響波形の似ている自然音もまた言語脳で聴き取っている。いわば自然は、私たちの脳に。”語りかけて“くるのである。当然、母音の親密感を、自然音にも感じている。
 だから、私たちは、虫の音を歌声のように聴き、木の葉がカサコソいう音に癒しを感じ、サラサラ流れる小川に弾むような喜びを感じる。自然と融和し、対話しながら、私たちは生きてきたのだ。
 母音を右脳で聞き流す脳は、自然音もまた聞き流す。彼らの脳に、自然は語りかけてはこない。おそらく、自然は、彼らに対峙しているはずである。そうであるならば、闘って支配するというスタンスのとり方しかありえないだろう。統制をとる、というかたちの調和しか思いつかないはずだ。
 私は、以前から、「自然保護」「地球を守る」という言い方には、どうにも違和感があった。そもそも、地球は、人類が守るほど脆弱(ぜいじゃく)なものじゃない。生物が発生するずっと以前、塩酸溶液の海だった頃から、地球は地球なのである。生物の生存に適した地球を美しいと感じるのは、私たちの側の問題なのだ。
 私には、「地球を守る」は、いかにも傲慢に聞こえる。人類が住みやすい地球でいていただく、が正解なのじゃないだろうか。「地球を守る」のではなく、「地球のご機嫌を損ねずに暮らす」のである。
 日本人は、山に神を感じ、海に神を感じて生きてきた。「山を守る」「海を守る」なんていう傲慢な姿勢ではなく、「山のご機嫌を損ねないように」「海のご機嫌を損ねないように」生活していれば、山からも梅からも裏切られないことを知っていたのだ。
 桔果、「自然保護」の暮らしだが、気待ちのスタンスは正反対だ。
 自然保護などという傲慢な概念をもつ人々には、鯨を敬愛しつつ、泣きながら鈷(もり)を打ち、だからこそ命を余すところなくいただく……という日本人の感覚は、理解しにくいはずである。
 ないと思い込んでいる人たちに、あるということを理解させることは難しい。ないと思い込んでいる人たちが多数派ならば、あるという人たちは、不可解な不穏分子であり、性悪な嘘つきにされてしまう。
 少数派にできることは、「腑に落ちないことには、首を縦に振らない」静かな姿勢を示すのみ。子音語で牛耳られた「合議制のテーブル」になんか、うっかりつかないことだ。

日本の生産技術の質が高い理由

 融和癖が高じて、日本人は、たとえば工場の機械とも一体化する。
 ある日本の精密機器の生産管理者が「光ファイバーの微細なコネクタを接着するとき、日本人の工員は、何も言わなくても、有効範囲のど真ん中にくるように接着してくれる。欧米人は、平気で有効範囲ぎりぎりの接着をするので、どうしても現場の耐久性が日本製のほうが良いのです」と話してくれたことがある。
 欧米人の工員に注意をすると、「有効範囲に入っているのに、注意される筋合いはない」と気にも留めてくれない。「たしかにそうだ、気持ちの問題なのだが、その気持ちを真ん中に集中してくれないか?」と言っても、相手は「言っていることの意味がわからない」と首をすくめるのだそうだ。
 逆に日本人の工員に「あなたは、なぜ、真ん中を狙うのか」と尋ねたら、「真ん中が気待ちいいから。これがずれると、気持ち悪い」と答えたのである。日本人なら、この発言に深くうなずかれることだろう。
 とはいえ、何ミクロンという微細な単位の作業である。気持ちよさで語るなんて、ちっとも論理的ではない。そう、まさに気持ちの問題なのだ。しかしながら、この「気持ちの問題」が、実際に現場での耐久性の差になって表れる。
 欧米人は、生産時の「気持ちの問題」はわからないようだが、日本製品がタフなのは身に染みて知っている。欧米の知識人たちは、日本車を買うとき、エンジンの製造記号を確かめて、日本の工場で組み立てられたものかどうかをチェックするのだとか。

 日本の工場の質の高さは、枚挙にいとまがない。
 あるメーカーでは、日本とベルギーにまったく同じ生産ラインを作って稼働させている。同じシステムに、同じマニュアル。なのに、不良品の発生率がまったく違うので、日本の生産管理チームを派遣した。報告は次のようなものだったという。
「ベルギーの工場では、生産機械のアラームが鳴ってから、ラインを止める。日本の工場では、アラームが鳴る前に、工員が微かな異常に気づいてラインを止め、トラブルを未然に防いでいる。ベルギーの工場では、当然のようにアラームが鳴っていたが、日本の工場では、創設以来、機械のアラームなど鳴らしたことがない。
 現場の「あれ、おかしいな。いつもと違う」という気づきは、機械の音や動きなど一つ一つの属性に着目しても表出しない微細な差を総体イメージとして感じる、第六感の範疇なので、到底マニュアル化できない。ベルギーの工場に日本の工場と同じ質を期待するのは無理である」
 境界線を融和し、拡張できる日本人の特性、ここに極まれり、という話である。

環境は言語を作り、言語は人を作る

 意識が融和する言語を使い、自然ともシステムとも融和して共存する私たち。
「合議制と民主主義を導入して、国際人になろう」という方向へ進まなければ、ストレスの少ない、静かな知の国家を形成していたはずである。
 実際、感じを導入する前の古代日本は農耕をせずとも、日本列島の住民をすベて養える国だったのである。すなわち、自然に生える草や実と、浜にいる魚介類を採取していれば十分に間に合ったのだ。
 自然に恵まれ、誰かを威嚇したり殺したりする必要もなく、全員が穏やかに生きていけた国。私たちの先祖は、言葉を生み出したとき、威嚇の必要性を感じなかったのである。山の情報と海の情報を交換して、共に育み合うことに意味があった。ことばは自然に融合する母音で交わされていったのだった。

 一方、砂漠や、乾いた土の大地、寒冷の地など、厳しい自然条件の中で暮らす人たちは、自然とも、他者とも闘わなければ生きていけない。ぼんやりしていたら、一〇人が一〇人とも生き残れる環境ではなかったのである。このような地域では、当然、縄張り意識が強く働いただろう。威嚇の子音を他人にぶつけることで、ことばが生み出されたのに違いない。
 最も子音に偏っている言語のひとつはアラビア語である。砂嵐が襲い、乾きが激しい砂漠の民は口を開けてゆっくりとしゃベっていられないので、母音は最小限にしか発音しない。アラビア文字では、普通の文書では記述しないという。母音は、音として認識さえされていないのだ。
 砂漠の国エジプトでは、識別できる単母音は三種といわれる。エジプト大使館のパーティに行ったら、クレオパトラが愛したというモロヘイヤスープが供されて、なんとも美味だったのだが、この「モロヘイヤ」を、ある大使館員は「ムロヘイユ」と呼び、別の大使館員は「モロヘイヨ」と呼ぶ。ふたりを並ベて「どれが正しいのか?」と聞いたら、「私たちはまったく同じ発音をしている」と言い張るので、びっくりしてしまったことがある。まあ、子音のRとLを混ぜる日本人が何を言うか、という感じだろうが、母音種の少ないエジブト人の英語は、日本人には特にわかりにくい。砂漠の民と、島国の民とでは、きっと何かの感性が、ものすごく対極にあるのだろうと思う。

 何千年も続く、豊かな自然が、私たちに、融和する母音語をもたらした。
 一方で、融和して共存する日本人の特性は、日本語という母音言語がもたらしているとも考えられる。
 なぜなら、前出の角田忠信博士によると、DNA上、日本人とまったく無関係でも、日本語を母語として育つと、母音を左脳で聴くようになることが確認されているからだ。
 たとえば、アメリカ人の子どもでも、縁あって日本語で育てば、母音で音声認識し、融和型の対話をして生きていくことになる。当然、自然と融和し、機械とも調和するのだ。
 環境は言語を作り、言語は人を作る、のである。

失楽園

 さて、身体性から論じれば、自然発生音の母音の方が当然発音しやすいので、本来なら世界の主流が母音語であってもよいはずである。驚いたり、伸びをしたり、痛みを耐えたり、しみじみしたとき、自然に口をついて出る母音をコミュニケーションの中心に使う方が、音韻上は無理がない。
 また、母音は長くのばして音響を効かせることができるので、遠くの人を呼ぶときには、母音中心のことばしかありえない「おーい」「やっほー」は、母音Oを強調して長く発音する掛け声である。洋上や、緑豊かな大地で、人々が呼び合い、協力して暮らすには、母音中心の音韻は便利なはずなのだ。
 古代、大陸全体が豊かな緑におおわれていたアフリカが砂漠化し始めて、人類が北ヘと旅を始めた。砂漠や寒冷地のような過酷な環境と闘うようになると、大らかに口を開けていられないので、子音語化が始まる。
 機械のようなデジタル音である子音語は、論理的で合理的な意識をヒトの脳に与える。やがて、怒濤のような科学の発達と、侵略の論理が世界の潮流になった。このようにして、人類は、何か大きな渦に巻き込まれていったのではないだろうか。
 環境は言語を作り、言語は人を作る。いったん言語を採択してしまうと、今度は、その言語の発音特性が人の意識を作り出す。意識はエスカレートしていき、やがて、止まらない潮流が人々を呑み込んでいくことになる。
 子音語の採択こそが、ヨーロッパ世界のほんとうの失楽園に違いないと、私が考えるゆえんはここにある。しかし、そのとき、人類発祥の地といわれる、アフリカの緑豊かな地を後にした人たちに、他にどんな選択肢があったのだろう。

楽園の住人、日本人

 さて、その頃、豊かな自然に恵まれた日本列島は砂漠化もせず、太平洋の西端にぽつんと暮らしていた日本人には、この国を後にするような事情がなかった。砂嵐も知らず、凍る大地も知らず、民族移動の通り道にもならない日本人には、残念ながら、子音語を採択するチャンスがなかったのだ。完全に、世界の潮流には乗り遅れたまま、今に至っている。
 そう。なんと、私たちはいまだに、楽園の住人なのである。

 なのに、今、この国は、能天気な失楽園を始めようとしている。
 すなわち、「将来、英語がしゃベれるとカッコイイから、うちの赤ちゃんに日本語では話しかけないで」という母親たちの登場である。挙句に、「英語を小学校から義務化にする」という教育界の潮流である。
 ヨーロッパ世界がロハス(LOHAS)などといって、自然と融和し合う癒しのライフスタイルを求め始めた今頃になって、なぜ?
 何千年か後、やたら威嚇する日本人によって、融和する意識に満ちた世界が、優しいことばを失う日がやってくるのだろうか……なんだかなあ。
 こんな馬鹿馬鹿しい失楽園、なんとか止めてもらえないものだろうか。
[PR]

by sadomago | 2009-04-10 13:51 | 音楽と生命とリズム


<< 米軍、「テレパシー」研究を本格...      日本語はなぜ美しいのか(1) >>